第1回長野・哲学カフェ「ソクラテスの弁明」


2014.5.12(月)18:30~

長野美学創造舎マゼコゼさんで開催しました

長野哲学カフェ記念すべき第1回目は、やはりこの人の登場です

ソクラテスおじさん♪

テキスト:中公クラシックス

田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」より抜粋

 

**********************

後世の我々がソクラテスおじさんと思い込んでいるのは

プラトンやクセノポンらが書いたソクラテス像なのであって

ソクラテス自身は後世に何の書物も残さなかったのです

ですから、このソクラテスの弁明は

いわば、弟子たちの残したソクラテスの言行録

 

今回、私たちが読んだのは

プラトンによるソクラテスの言行録なのであります。

*********************

今回、記念すべき第1回の長野哲学カフェ@マゼコゼさん

12名のみなさんにご参加いただきました

こんなに大勢でどうしようかしら!とドキドキしましたが

なるったけ、講義のようにはならないようにと想いながら進行しましたが

やはりこの人数ですと、2時間の枠はきついなぁと思いました

参加者皆さんからもっともっとたくさんの考えや言論を聞く時間があると良かったなぁと反省。

 

さて、東京での哲学カフェと同じ作品で開催しても話の論点が違ってくるという、やはりそんな面白いことがおきますね、土地柄ってちゃんとあるんだなぁ。。

 

不完全なものを認めながら完全なものも認める

そのような相反する二つの道を一つにまとめるもの

このソクラテスの弁明において、それは「神(ダイモン)」です

神を信じないものとして裁かれるソクラテスは

また、神を信じるものであることは他の証言からも明らかです

信じようが信じまいが、其処に神的存在が在る

この「在る」とはいったい何なのでありましょう?

なぜ「神的存在」を人は在るや在らぬで語るのでしょうか?

 

そんなことを数日たってもまだ私は考えています

 

それが長野哲学カフェのかけがえのない時間の中で起きたことの一つでした。

 

古代においてはアテナイとスパルタがギリシャの2大都市国家で
アテナイは、多くの哲学者を生み、史上初の民主制を打ち立てた国でもあります

ソクラテスがアテナイで一番の知者であるという神のお告げがされたという、デルポイはギリシア最古の神託所です。

デルポイの神託はすでにギリシア神話の中にも登場しています。

当時のアテナイ人たちの運命はこの神託に左右されていたという背景があります。

神殿入口には、神託を聞きに来た者に対する3つの格言が刻まれていたとされます。

 

  • γνῶθι σεαυτόνgnōthi seauton) - 「汝自身を知れ
  • μηδὲν ἄγανmēden agan) - 「過剰の中の無」(過ぎたるは及ばざるがごとし、多くを求めるな)
  • ἐγγύα πάρα δ᾽ ἄτηengua para d' atē) - 「誓約と破滅は紙一重」(無理な誓いはするな)

 

神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えていたようです。賄賂でデルポイの神託を操作するようなこともあったようなのでいかに当時のギリシア人がこの神託に左右されていたかがわかりますね。

 

そんな時代の神託で「アテナイで一番の知者」と告げられたソクラテス

いかに多くの権力者たちから忌み嫌われたのかは想像に容易いところです。

 

 

そんなソクラテス、死を目前にしても決して恐れることなく弁論します

 

ダイモンのたぐいを認めてこれを教えている

という理由で僕が裁かれているのだとしたら…

ソクラテスは自分を訴えている若者メレトスに語ります

 

(ソ)「ところで、そのダイモンというものを、われわれは神もしくは神の子と考えているのではないか。どうだ?君はそれに賛成するかね、反対するかね?」

(メ)「まったく賛成する」

(ソ)「すると、君の主張のように僕がダイモンを信じているとするならば、そのダイモンがまたなにか神だということになると、君の謎遊び、ふざけ仕事であると僕が主張するゆえんのものが結果するだろう。つまり、神を信じないはずのぼくがダイモンを信じている限りにおいて逆に髪を信じている、というのが君の主張だということになるだろう。また他方、ダイモンというものが神の傍系の子供であって、女精その他の伝説されているような女性から生まれてきたものであるとするならば、神の子は存在するけれども神は信じないなどという者が世に誰かあるだろうか。それはちょうど騾馬というものを馬と驢馬のあいの子として認めながら、馬と驢馬の存在を信じないのと同じようなもので、奇妙なことになるだろう」

(中公クラシックスソクラテスの弁明より引用)

 

このようなダブルスタンダードな思考や行動

私たちの中に当たり前にありませんか?

 

ソクラテスの論法は「人がその語にその本来の意味するところ以上の内容を負わせていることを臆見(ドクサ)として示し、語をその本来あるべきところへ戻すこと」(池田晶子著2001年哲学の旅より引用)

 

「人生の目的は魂の世話をすることである」

死を善でも悪でもないもの

「知らないもの」としてしかとらえず

その知らないものを知る瞬間を当たり前に受け止めた

ソクラテスの言行一致の人生に

やはり魅力を感じずにはいられない夜でした。

 

 

死を目前にしながらも彼はこう弁明します「私は何度殺されることになっても、これ以外のことをしないだろうことを、ご承知願いたいのです。」

そして彼は言いました

「しかし、もう終わりにしましょう、時刻ですからね。もう行かなければならないわけです。私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、だれにもはっきりはわからないのです。神でなければ。」

 

私の人生は私が選んでおり、私が考えているように思いますが、私が選びたくて選んだものでないものもそこには存在しているのはまぎれもない事実です。しかしながら、やはりそれは私が選び考えたことは間違いないことなのです。

 

私たちは選びながら選ばされており

私たちは考えながら考えさせられている

このような2重の世界から抜けられずにいる

 

ソクラテスはそのことを確信していたかのように

現代になってもいまだに私たちに問いかけてくるのです。

 

ーおい君、ちゃんと魂の世話をしているか?―

 

 

次回は6月9日(月)18:30~です

場所は同じくカフェマゼコゼさんで

プラトン著「饗宴」を扱います

テーマは「愛」についてです