第5回読む哲学カフェ:デカルト・方法叙説

 

2014.7.12(土)

第5回読む哲学カフェ

デカルト・方法叙説で考える

 

最初は全体を小説を読むように通読してほしい、難解な個所もあまり気にしないで、大体において何が書かれているかを知ってほしい。そのあとで難解な個所で、これは考えてみてその理由を問いたい、という気持ちが読者に起こったらあらためて私の論証をたどってみて欲しい。(ルネ・デカルト)

 

そんなデカルトの意思をまずご紹介させていただきました。

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この方法叙説はあまりにも有名な本です。

日本でもたくさん読まれていますね「デカンショ節」という学生歌がありますが、これは「デカルト・カント・ショーペンハウエル」をもじったなどという説もあるくらいです…

 

                             ルネ・デカルト 

1596-1650

(54歳のときに旅先のスウェーデンにて肺炎で死亡)

彼が方法叙説を公刊したのは41歳の時です。

41歳の時に彼はやっと哲学したのかもしれません。

いや、そこがスタートだったのかも…

しかしながら、この方法叙説では彼は一切の政治問題には語っていません。

軍隊経験もあり、法官の息子でもあった

そんな彼にとって政治とはいったいなんだったのだろうか

そのようなことを考えたりもしますね

・方法叙説について

「理性をよく導き諸々の学問において真理を求めるための方法についての叙説」です

 

6部に分けて構成されています

 

第1部 諸々の学問についての様々な考察

第2部 方法の含む主な規則が示される

第3部 デカルトがこの方法から取り出した道徳の規則

第4部 デカルトの形而上学の基礎が示される

第5部 デカルトが探求した自然学の諸問題の順序および、特に心臓の運動と医学に    属するいくつかの問題と説明、さらに人の精神と動物の精神の間に存在する    相異

第6部 デカルトが自然探求のためにさらに必要だと思うもの、またデカルトが著述    した理由が示される。

 

パリの書店に行けば必ずデカルトの方法叙説はあるというほど、フランス人たちにはなじみのある一冊です。

 

「わたしは考える、ゆえにわたしはある」

「明晰判明なものはみな真である」

フランス人であればだれでも知っているとされるデカルトの言葉です。

 

デカルトは理性の一様性・普遍性・そして平等性に注目しました。

そして、この理性の使われ方に問題があるのだと考えた人なのです。

 

この書物の中で、彼は学校で学んだ諸学問の吟味を、まず肯定的に、そして否定的に行います。

彼は11歳から19歳までフレーシュ学院というイエズス会の学校(新時代を担う青年のため王の支援の下に建てられた、当時のヨーロッパでは最も有名な学校の一つでスコラのカリキュラムに基づく人文学教育を受けました。

なかでも、彼が気に入っていたのは詩と数学で、晩年の1649年にはストックホルムで舞踏劇「平和の訪れ」を書いています。

 

さぁ、そんなデカルトはこの学問を批判し始めます。

・現実からの遊離

・事実とフィクションの取り違え

・詩は天賦の才能が必要

・神学は所詮信仰にすぎない

よって、学問は人生の役に立たない!

↓   ↓    ↓

日常の行為の指針にならない!

として、その批判は教育ではなく学問に向けられました。

 

 そんなわけで、読むテツもどんどん濃い時間となってまいりました~

第5回哲学カフェメニュー

・デカルトの紹介

・4つの規則の概要説明

・方法叙説第1部朗読タイム

・みんなで考えてみましょうタイム

 

そして今回は参加者野田さんによる…

・科学と哲学が分離した

・四つの規則の特徴と影響

・四つの規則のうち総合を座標を例に説明

・イデアとの違い(天上界について)

 

というお話を聞かせていただくコーナーも準備させていただきました。

レジュメまで作ってきてくださって本当にありがとうございました!

参加者のみなさま、その時の哲学者や作品に思い入れがあれば事前にご相談ください。ぜひみなさんの前で発表していただきたいなぁと思いますよ。

 

ギャラリーカフェKのオーナーさんも実はデカルトファンということもあり、参加者のせいろちゃんもデカルトを読むことを薦められた経験があるなどなど、デカルトはかなりの勢力(笑)でその名をとどろかせていますが、やはりその名声は確かな彼の考える生き方に支えられているように感じました。

 

【デカルトで考えてみる】

これはとてもよい経験になりました。デカルトは考えるにはもってこいの本を書いてくれていたんです。

 

苦渋の決断という言葉がありますが、この言葉は実は誤解されて受け取られているように思います。真の決断は苦渋の先にしかないのかもしれない。デカルトの方法叙説を読み終えて感じたことです。

 

私たちが「決断した」と思っていることは、それは、思っていることだけにすぎず、実はいままでの慣習や風習などにそって「選択」しているだけかもしれない。

 

良いか悪いか

白か黒か

行くか行かないか

右か左か

 

どちらかを選ぶことは決断と呼ばれるものではない

 

君が決断したと思い込んでいるものを徹底的に疑え!!

 

そういっている彼の声が聞こえるようでした。

 

本来決断するとはいったい何でありましょうか。

方法叙説を読むことで、彼が「方法」と言っているそのものじたいが「決断」そのものであるように私には感じられました。

 

しかしながら、方法叙説の中の決断はあくまでもデカルト自身の決断なのです。

それは、私の決断ではない。というのが読み終えた私の決断であります。

 

彼のこの「決断」ともいうべき「方法」が現代でも読み継がれ考え続けられていることを想いますと、まさにこの書はデカルトという男の苦渋の決断の始まりの書だったのではないかというところへいきつきます。

そのくらい彼は疑っています。

疑って、疑って、疑い続けています。

その疑いようは、まさに、信じる者は救われるというような、一緒の信仰心にも似た…いや彼は疑いを信仰していたのかもしれないなぁ。。

それは41歳という人間の成長過程においては心身共に最高な状態にある年齢だったことも大きく関与しているかもしれません。

 

考えるとはなんでしょうか?

私たちは知りたいために考えるのでしょう

科学技術を発展させるためでもなく

神の存在を証明するためでもない

ただ知りたいから考える

そのような思考を徹底的に吟味するということが

デカルトにとっては「疑う」ことだったのかもしれません

 

デカルトにとっての方法叙説は

問いと答えの小冊子のような知識と理論だけの本ではなく

自分の身の上話を加えた決断を語る本だったのではないでしょうか

この書にある形でしか伝えられない想いを含む生きるための方法

 

いつもみる空であるはずなのに

初めて青い空を見たような気持ちになることはありませんか?

 

私たちは知識や理論に振り回され

経験していても経験していないものが多々ある

 

「われ思う、ゆえに、われあり」

 

デカルトはこの書の最初に以下のようなことを書いています。

「私は自分の意見のいくつかを非常に優れた精神の人々にたびたび説明をしたことがあり、私が話している間は彼らは極めて判明に私の意見を理解しているように思われたにもかかわらず、それらを彼らの口からもう一度という段になると、彼らはほとんど常にそれを変えてしまい、私としてはそうそれを自分の意見だとは認められないようにしてしまうのであった。なおこの機会にここで後世の人々に私の意見だと人から聞いても私自身で公にしたことでなければ決して信じないようにとお願いしておきたい」

 

いろんなことがあったのでしょう。彼の苦渋の決断によって出版されたであろうこの「方法叙説」ぜひみなさんも読んでみてください。

 

それを疑え!

そのものを探れ!

 

彼の声が聞こえてきます。

 

 

ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました。デカルトと共に過ごした2時間本当に実りある時間でした。またやりましょう!デカルト!