第7回読む哲学カフェ・「私とは何か・生きる尊さを考える」

参考図書:南直哉著「老師と少年」

直哉(みなみじきさい、1958年)、長野県出身の曹洞宗の禅僧 

早稲田大学第一文学部卒業後に大手百貨店で勤務するも、1984年曹洞宗にて出家得度、大本山永平寺入門。19年間の修行生活を送る。

送行後、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代に就く。

あなたが老師と会った最後の夜

老師は私がもう一度あなたに会うことがあったら、こう伝えてくれと言っていました。
「生きる意味より死なない工夫だ」
笑いましたね。

老師は、あなたが笑ったらこう言えと言いました。
「その笑いの苦さの分だけ、君は私を知ったことになる」

~南直哉著「老師と少年」より抜粋~

 

 

4名の方にご参加いただきました。

 

中には遠くからおいでいただいた方も

いらっしゃいましたね

みなさまお疲れ様でした!

 

 

【考える】ただそれだけのために、いろいろなご都合の中から時間等を作っていただいた、【考えること】に本気で向き合うみなさんと【考える】時間を共有できてとてもうれしかったです。本当にありがとうございました♪

 

今月は、特に活発な意見交流ができました。

前夜・後夜に挟まれた7夜で構成された老師と少年の対話で構成された書ですが、時間の都合上、私の方で抜粋させていただいた部分を参加者おひとりずつに読んでいただきました。

おひとりおひとり個性があって「声に出して読む」時間は本当に大切ですね。

大人になるとなかなか、声に出して読むことが少なくなりますから、この読むテツにおいでの際は思いっきり楽しんで「声に出す読書」をしていってくださいね。

 

おひとりずつ朗読をしていただいた後、読んでいただいた方に感想を述べていただき、その他の皆さんで思うところあれば語っていただきました。

 

皆さんから様々な「私とは何か、生きる尊さ」を考えたご意見が出ましたねぇ

 

:私とは何か:

それをテーマにしていても、私たちは社会や親子関係や、その他のものと重なる部分でないと、うまく「私」が語れない。

 

そのような印象が残りました。

 

みなさんの、特に今月は活発に意見が飛び出した回でしたから…他者とのかかわりに自分を見出すということ、それは良いとか悪いではなく、「私存在」そのもの以外のものとのかかわりの中で、反射するように「私」に突き刺さった「痛み」とか「苦しみ」とか「不安」とかそのようなものが、さも「私そのもの」であるかのような感覚を引き起こすのかもしれないなぁと感じました。

 

そう考えますと、「社会」という仕組みそのものも、自分で勝手にそう思い込んでいるものかもしれないし、「親子関係」だって、自分で勝手にそう思い込んでいるだけのものかもしれない。

 

人間の「思いなし」というものはすごいですね。

 

人間関係も社会という仕組みそのものをも構成させ成立させるんですから。

 

参加者の方からでたお話の中でとても興味深いお話がありました。

「本当の自分と嘘の自分」という意見

いやぁ、この言葉をきっかけに、やはり活発な意見交換ができました。とてもうれしかったです。

 

嘘の自分って、案外と、社会向けの自分だったりしませんか?本当の自分はこの社会で存在している自分ではないと、自分でそう思うから「本当の自分」を探したくなる、知りたくなる。。でも、その「嘘の自分」も、周囲の人から見れば「その人自身」でしかないわけです。

 

しかしながら・・・・

社会的な自分=嘘の自分

という感覚はなぜだかみんな「あぁ、たしかに」と納得してしまうところがある。

わりと、多くの人が共有している感覚だろうと思います。

 

ではなぜ、社会に対応している自分を「嘘」だと思ってしまうんでしょう。

今回は、この問いを得とくできた気がしています。

次回も一緒に考えましょうね。

 

私自身、読む哲学カフェのコーディネーターとして、長野での開催と合わせて9回のカフェ開催を経験し様々な「場」というものの成り立ちの難しさと、また喜びも感じております。少しずつではあるものの、皆さんの意見を引き出せる瞬間を作れるように、これからも精進したいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。