第3回哲学カフェ「アラン・幸福論」@長野マゼコゼさん

第3回目となりました

長野で開催している

哲学カフェ@マゼコゼさん

 

今回は

「アラン・幸福論」を読みつつ

幸福について考える2時間

 

 

参加者が少なかったので、一人ずつの発言に時間がゆっくりと取れ、私もマジで熱く熱く語ってしまいました・・・

 

でも、「幸福」について考えるのだから、マジで考えることはきっと良いことだと思われます。

 

まずは、みんなで「アラン」その人と彼の哲学における功績をざっとおさらいしました。いや、初めて聞いた方もいたかもしれませんね。だから、なんかいやったとしても何回でもおさらいは必要ですな。

 

で、みなさんに気になるプロポを選んで読んでいただきました。むろんプロポの題名だけで「ピン!」ときたものを読んでもらうという趣向で。

 

でも、下手な占いよりも、自分の直感の方が、驚くくらい自分に必要なものを探し当てたりしますよね。今回もそのような感じでした。

 

皆さんが選んだプロポをご自身で読んでいただく

読んだ後、感想を述べていただく

そうして、それをみんなで聞きながら

質問や、感想を述べ合うという

アットホームな流れ

 

で、2時間近く話し合った結果

 

今回のカフェでの結末は・・・

 

幸福であるために

私たちは

 

「礼儀正しく」

「自分を大切に」

しなければならない

ということで落ち着きました

 

ここからは私的な意見ですが

そもそも幸福になるということが、どうしてこのように真剣に何回も昔から語り続けられているのかを考えてみますと、それは人間そのものの生活が不幸だったからなのかもしれないなと思えたりもするわけです。

本来、幸福であれば、我々は幸福などについてあれやこれやと論じ合う必要はないわけです。健康な時に健康という状態をいちいちかみしめたりしないように、幸福であれば、何が幸福なのかなどと、いちいち確かめる必要もない。

ですから、みんな、なんだか、なんとなくであっても、不幸なのでしょう。もしかしたら、不幸というよりも、幸福ではないだけかもしれませんが、幸福という概念がぼんやりしているのであれば、何が幸福かわからないわけですから、「あぁ!いま幸福だわ!」と自分で断言することもできにくい。

あ、そうですね、ですから、もしかしたら、現代社会においては、幸福と不幸の境界線が非常にぼんやりとしてあいまいなので私たちはふらふらと迷っているのかもしれません。

で、先人たちが考えてくれた書物を読むことで、まずは誰かの幸福という概念を知り、その概念に批判や、もしくは同意を積み重ね、自分自身の「幸福」や「不幸」というようなあいまいな概念のアウトラインをはっきりとさせていく。

 

哲学書を読むということは、そのような作業にはもってこいなんだと、今回もしみじみと思ったのであります。

 

10月20日には鹿児島の伊佐でも「アラン・幸福論」を題材に幸福について語り合います。いまから楽しみです♪