第4回 長野・読む哲学カフェ番外編 《母》という存在を語る。

11月の風が凛と吹く長野で開催させていただきました。

第4回目となる哲学カフェ、今回は番外編として「対話編」で行いました。

参加してくださったのは女性ばかりでしたが、《母》を語るという初の試みのためには、今回ご参加いただいたみなさんは必然的に集まった方々なのかもしれない。


そんな風に思えるほどに活発に意見が出ました。


ご参加いただいたみなさん、いつも場所を提供してくださるマゼコゼさん、本当にどうもありがとうございました。

哲学は日常に在る。


常々思うことでしたが、この写真を見て、しみじみとそのことが実写として目前にあらわれた気持ちがいたしました。


人は考えることで

女になり

母になり

また新しい人になる


そんなことを思わせる一枚、皆さん本当にありがとう。

哲学は日常に在る。私にとって、そう感じさせてくれたのが育児であり子育てであり家事であり親戚づきあいなどでありました。

母である存在の人々は、実はとても豊かな発想を胸に抱きつつ、しかし、実に現実的に具体的に人生を生きている。

しかしながら、豊かだからこそ傷つき、現実的だからこそ抱えなくてもいい罪悪感を抱える人もいる。

《母》間違いなく必要な存在である。

だからこそ、我々は「母なる宇宙」や「母なる大地」などと言い自然存在にも母を見出し、「成功の母」などと思考方法にも母を見出し、慈悲の中にも母を見出す。

参考図書などがない状態での哲学的な対話編哲学カフェでしたので、私の思想をご紹介するために詩を1篇書かせていただき朗読させていただきました。


《母》 詩 小西とっこ


それは、一人の「女」であり

それは、一人の「人間」である


母は、最初から存在していなかった。


だからこそ、私たちは「母」を考えるのだ。


ある日、ひとりの人間は

女になった


ある日、ひとりの人間は

母になった


母は、変化した存在でありながら

絶対的な存在なのだ


なぜだろう

なぜなんだろう


母は不思議な存在だ

それは覚悟して成る存在だ


なぜだろう

なぜなんだろう


なりたくてなる人もいれば

なりたくなくてもなる人もいる

なりたくてもなれない人もいるし

なることを手放す人もいる


なぜだろう

なぜなんだろう


その選択は母に変化する可能性を持つ

ひとりの女に授けられている


それは紛れもない事実なのだ


あなたの知る母は

一体どのような存在ですか?


あなたが創り上げた母は

一体どのような存在ですか?


母とは何なのか

母とは何であるべきなのか

母が考えさせるのだ


母となった人にも

母にならなかった人にも

母を知るだけの人にも

母を知らない人にも

平等に考えさせるのだ


母という存在が。

哲学的対話編カフェは素晴らしい時間をもたらすのだと実感しました。


思考したものを語るために私たちは考えをまとめます

そのことによって自分というものを認識することができます

そのまとめた考えを語ることで、さらに社会と自分とのかかわりを意識できます。

そして、他者の考えを聞くという行為によって、自分の価値観を知ることができ、また、他者の思想を認める練習にもなります。



私が今回皆さんに問いかけたのはふたつ


・母とは召使なのであろうか?

・母は愛するために存在するのか、それとも愛されるために存在しているのだろうか?



対話の中で、皆さんの意見が時間とともに活発になりました。

これは、歌やダンスとよく似ています。

最初からエンジンがかかる人はなかなかいないし、そういう人はその道のプロであって、いつでもその瞬間のために準備をしているのですぐさまエンジンがかかる。

だから、哲学的な対話を初めてするという人もいたでしょうから、会も終盤になってやっと考えがまとまるということは当然のことであって、もしくは人によっては1か月後かもしれません、1年後かもしれない。

それでも、何かを真剣に考えたという事実は決して人を裏切りません。


皆さんの意見を聞きながらそのようなことを思いました。



《母》という存在は

肉体的に母を表現できる女の中にあるのみならず

それは万人の概念の中にも存在するはずです

母とはなんなのか?

それは広く言えば我々の概念そのものかもしれない・・・


どんなに周囲の人が「あの子はみじめだ」と思うような取り扱いをされていたとしても、渦中のその子は「お母さん大好き」と言うことが多々あります。

これは会の中でも出たお話ですが、親が子供を思う気持ちは様々な子育ての経験によってはぐくまれるものなのであって、生まれつき持っているものではないでしょう。

しかし、我々が親を思う気持ち、親に愛されたいと思う気持ちは、生まれた時から持ち合わせているようなものであって、それは生命を維持させるための本能的な特質であったとしても、間違いなく生まれた時から子供は親を愛しているのです。

であれば、母は「愛される存在」ではあるけれども、決して「愛するだけの存在」ではありません。しかしながら、「愛される存在」の毎日の中で、その経験の中で、「強く優しく愛する存在」へと変化していくのでありましょう。


これは、むろん母親だけではなく、父親にも同じことが言えるでしょう。


我々は「苦悩するために母を利用する」ことはやめて、「母になるために苦悩を積み重ね乗り越える」必要があるのでしょう。これは、父たちにとっても同様でしょう。


そして、大きく言えば「我々は人になるために苦悩を積み重ね乗り越える」必要がある。とも言えるでしょう。


《母》という存在を通じてみなさんの《母》をめぐらせていただきました。

とても大きな財産となりました。本当にありがとうございました。


「1回で終わらせないでください、またやってください」

そうおっしゃってくださった数名の参加者の言葉に私自身、自分の目前が照らされたような気持でおります。


また!必ず!