第9回読む哲学カフェ:一度は読みたいカント!

 

イマヌエル・カント(1724~1804)

東プロシアのケーニヒスベルク生まれ。

ケーニヒスベルクは現在のロシア共和国のカリーニングラード

当時は北ドイツの賑やかな港市だったところ。

 

お父さんは馬具手工業者

父母ともに熱心な敬虔主義者(ルター協会の一派)

 

敬虔主義とは・・・

禁欲や個人的内面生活に集中

宗教上の儀式主義や俗物主義に反抗

当時のドイツに広く普及していた

 

彼の書を読むために、熱心な敬虔主義の父母のもと、敬虔主義が周囲にも広く普及している社会の中で彼は育ったのだということ、一つ押さえておくとよいかもしれませんね。

 

8歳でフリデリキムス学校に入学し、16歳でケーニヒスベルク大学に入学。ヺ流布哲学とニュートン力学を学ぶ。

 

そんなカントさん

日本ではどのような風に受け入れられたのかといいますと。。。

日本の倫理教育・修身教育に利用されています。

 

西周さんもかなりの影響をうけたようですし、井上円了さんが建てた哲学堂には、孔子・釈迦・ソクラテスの賛成人とならんでまつられています。すごいことだなぁ、まつられてるんです。。ソクラテスがまつられているのにも驚きますが。。


明治の末年から日本で流行し、日本の哲学者で現在40歳以上の人々はほぼ影響されているといわれています。

しかしながら、日本で流行したカント哲学は、実はドイツで19世紀松以来流行した、主観主義者に押し縮めたような新カント派のカント像だったようです。



今月の参加者は2名でした。

いつもご参加、哲学いただき、ありがとうございます。

「考えるために集まる」

生きてきた場所も時間もばらばらだったはずなのに、「考える」ことによて引き寄せられ語り合う時間を共有している。

こういうことはなかなかない、人によっては、そのような時間を持たないままの人もいるかもしれないんですから。。

貴重な時間だなぁとしみじみいたします。

さて、今回取り上げた書は「啓蒙とは何か」という本です。

真理の体系ではなく、人々の思考の営みの性質について、方法について、問題にしたカントの公衆を啓蒙するために書かれた著作。

「人々に自ら考える」ということを広めたいという彼の思いを読んでいる気がしました。

 

カントによれば、我々は自ら招いた「未成年」の状態で、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない状態です。

 

まずは、このことだけを考えてみて私はふと思ったのですが、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使えないということと、誰が指示したとしてもぜったい理性を使わない!ということにおいては同じではない。だから、理性を使わない人がすべてカントの言う「未成年」の状態であるとはならないわけです。


現代社会に多く見受けられる、この「誰の指示があろうとも理性を使わない」と自分で決定しているような人々をカントはなんと呼ぶのだろうか?カントにぜひ聞いてみたい気持ちです。

理性を使えない人々にカントは「勇気をもて」と言います。

我々が理性を使うことができないのは勇気がないからだと、彼は言うのです。


・理性を使うために多大な勇気を必要とする・


この勇気が足りないために理性が使えないというわけです。

理性に代わって書物

良心に代わって牧師

健康に代わって医者


というものを我々は使う。

勇気がないから・・・

上の良心に代わって牧師という部分は、日本で言いますと、教師や世間体などがあてはまるのではないかと思います。


で、そのくらい、自ら理性を使うことは難しくって勇気が必要なのだけれど、それでもその勇気をもて!とカントは言います。そのためには理性を使う訓練が必要だと。


また、「法律」や「ルール」について、人間の理性を誤用させるために用意された仕掛けと呼んでいます。これは、自分で考えることなくしての先入観による基準設定や決定の有害性を唱えているのだと思われますね。

でも、先入観といいますか、植えつけられたものであるのに、そいれが明らかに自分の思いであったかのように従ってしまう場合があります。しかし、それは誰かに受け付けられた先入観なのであって、自分の内にもともとあった理性(悟性)ではない。理性(悟性)はもっともっと低い小さい薄い狭いものなのかもしれない。それを先入観が見失わせる。でも、その小さな小さな低い先入観を見つける勇気を持つ、些細なことに感じた疑問を見て見ぬふりをして無視しない、「私の思い」というもの、それは本当に自分の理性(悟性)なのだろうか?という疑問をなくしてはいけない。


私自身、「啓蒙とは何か」を読み終え、そのように思えました。

「永遠平和のために」のなかでもカントはこう語っています。


「自由とは、他者に不正を加えずに行動する可能性である」


この自由は「楽」とか「ゆるい」とかそんなことではないでしょう。


我々は、「啓蒙」していなければない。実はその「啓蒙」の中に「他者に不正を加えずに行動する可能性」としての真の「自由」があるのです。



会でも少数でありながら、活発な意見が出ました。現実の生活の中から出てくる話で啓蒙について語ることもできました。


哲学は日常の中に生かしてこそ哲学なのです。という思いがさらに強くなりました。


ご参加いただいたみなさま、貴重な意見をいつもありがとうございます。これからもよろしくおねがいいたします。