第10回 「老い」を考察する~ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するにつれて若くなる」


「老い」は成長なのか?
「老い」は進化なのか?
「老い」は衰退なのか?
「老い」は救いなのか


「老い」とはなんだろう?
ヘルマン・ヘッセの著作を参考にしながら

今回は「老い」を考察しました。


あなたにとって「老い」とはなんですか?

ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse, 1877年7月2日 - 1962年8月9日)は、ドイツの作家。主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者である。

風景や蝶々などの水彩画もよくし、南ドイツの風物のなかでの穏やかな人間の生き方を画いた作品群の他に、ヘッセの絵を添えた詩文集は、今でも人気がある。1946年に『ガラス玉演戯』などの作品でノーベル文学賞を受賞した。(ウィキペディアより引用)


まずは、彼の人生をみんなでたどってみましたが

まぁ、なんといいますか

数回の結婚や離婚を繰り返した方で

様々な経験を積まれた人生だったようです。

読者や知人との手紙での交流はものすごい数に及んで、ついには自分の生活を圧迫するほどだったようですが、彼はそれが止められなかったようでした。おそらく彼に必要な儀式かもしくは祈りのような行為だったのかもしれません。

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2014年3月からスタートした

井戸端会議的な「読む哲学カフェ」

今回で10回となりました(東京では)

10回もやったのかぁ。なのか

まだ10回なのかぁ。なのか

よくわかりませんが


来年も頑張って「考えよう」

そんな気持ちです

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さて今回、「老い」というテーマにて、私から皆さんに投げかけたのは・・・


・「年寄」ってなんだろう?

・善い年寄と悪い年寄ってあるだろうか?

・好ましい老人像は?


以上のようなことでした

 

そもそも年寄って「老い」というものそのものの本質ではないとは思うんですが、やっぱり一般的な「老い」を把握するためには、儀礼的に「敬老の日」を基軸に(私たちの習慣や風習にある老い)をまずは考えてみました。

 

―日本における「老い」についてー

敬老の日は、1965 年に「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と法律で定められました。社会の為に貢献された高齢者を祝う敬老の日は、長い間社会の為に尽くしてきた高齢者を敬い、長寿を祝う日です。また、それとともに高齢者の福祉について関心を深め、高齢者の生活向上に努めるよう若い世代に促すという気持ちが込められています。

名称の由来 ◇593 年の 9 月 15 日に聖徳太子が大阪の四天王寺に「非田院〔ひでんいん〕」を設立したと言われています。「非田」とは「慈悲の心をもって貧苦病苦の人を救えば、福を生み田となる」という意味があります。

非田院は、身寄りのない老人を収容する、今でいう老人ホームのような施設でした。敬老の日はこの「非田院」の設立にちなむと考えられています。

また「敬老の日」という名称に落ち着くまでには長い期間を要しました。1951 年に中央福祉協議会が「としよりの日」と定めましたが、この名称に各地で議論がおこりました。それを受け、1963 年に老人福祉法の制定に伴って「老人の日」に改正されましたが、この名称もまた、語呂が悪いなどの理由から、1965 年に現在の「敬老の日」となりました。

長寿のお祝いは数え年で 61 歳(満 60 歳)になる「還暦」からお祝いするのが習わしとなっています。還暦には自分の生まれた年の干支が一巡し「赤ちゃんに戻る」という意味で、赤いチャンチャンコと頭巾を贈るという風習があります。 

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以上のような「敬老の日」の成り立ちを観ながら・・・まぁ、日本における「老い」というか、「年寄」のおおまかなカテゴリーは理解できたけれど、「老い」の本質を考えるとこれはあまり関係ないというか、肉体的な老化を「老い」と呼ぶのではないような気がする。。。


そんな雰囲気にカフェ自体が流れ始めましたね~

 

そこで、次にみんなで以下のヘッセの手紙の一部を読んでみました。

 

ヘッセからの手紙(毎日新聞社)より

「青年期から壮年期にいたる道程には、二つの主要な段階が存在します。一つは、

自分自身の自我に気づきしっかり自覚する段階で、もう一つは、この自我を社会

に適応させる段階です。青年が平凡であって何も問題がなければ、それだけこの

2 つの課題が彼に与える苦労は少ないでしょう。しかし、より繊細で才能に恵ま

れた人はもっと苦しい思いをします。特殊な才能ゆえに自分では進むべき道がわ

からない人は、一番苦しい思いをします。しかし人生はすべて冒険です。個人の

持っている天分や性分や性向と社会的な要求との間に、常にバランスを取ってい

なければなりません。それは犠牲や過ちなしにはすみません。そしてまた、表面

上は成功し安定しているかのように見える我々老人も疑いや過ちを克服してい

るのではなく、その只中にいるのです。」 

 

さらに、彼の詩を2編読みました。

「さらば、世界夫人」と「50歳の男」という詩です。

 


会を進めながら、皆さんから出てきた意見は・・・

「老い」と「老人」というものは同じものではないということ

「老い」は個性のようなもので、その個性はとてもなりゆき任せだというもの

「老い」というものにおいて、肉体的な「老い」には対処できる方法がある


などなど


そして、現代社会は昔に比べて【年齢】があまりに個人的になりすぎていて、何歳だからこうだ、というような基準があいまいだということも、みなさんからでた意見でした。



たしかに、現代社会においては肉体的な年齢においても、個人差がかなりありますね、ですから精神的にとか、生活レベルにおいてだとか、様々な側面で「老い」の基準にずれがあるように思います。ヘッセの生きていた時代の方が「老い」についても、現代社会よりもフォーカスしやすいのかったかもしれないですね。


そのくらい、文明や文化が進むと、「生」も「病」も「老い」も「死」も、変化するものなのだろう。そうではあるけれど、やはり動かない本質がないということは言えないのである。なぜならば、多くの哲学者や詩人たちが、多くの宗教者や科学者たちが、その本質の重要性を訴えるづけているのは事実だからだ。


生・病・老・死


その本質を探究すること。

まずはそこから始める必要がある。


ということも、多くの昔の私たちが考えてきたことなのだ。

その本質はいまだ確立されていないのだとしたら

その本質は時代や環境で変化するようなものなのかもしれない


「老い」は変化するのかもしれないものなのだ


今回のカフェで、私の心にそういう思いが残りました。

 

今年最後の哲学カフェだったので

参加者の皆さんに

デザート&珈琲をプレゼントさせていただきました♪

 

カフェのAちゃんが

新作のティラミスを

わざわざ準備してくれたんです^^


こういうお気持ち嬉しかった♪

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次回の哲学カフェは

2015年1月10日(土)17時半から

「ジョルジュ・バタイユの思想を探る」

参加費500円(1ドリンク別オーダー制)

西荻窪カフェギャラリーK
参考資料「ジョルジュ・バタイユ著 エロティシズム」