第11回読む哲学カフェ「初めて読むバタイユ」


·      第11回 「はじめて読むバタイユ」

~ジョルジュ・バタイユ・エロティシズムを読んでみよう~

ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ
(Georges Albert Maurice Victor Bataille, 1897 年9 月10 日 - 1962 年7 月8 日)

フランスの哲学者、思想家、作家。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ などに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。

三島由紀夫は自決する前、一番親近感を持っているのはバタイユと述べている。岡本太郎 - 1930 年代のパリ在住時にコントル・アタックやアセファルに参加している。「アセファル(無人)」とは、1937 年にフランスの思想家ジョルジュ・バタイユがオーガナイズした神秘主義的要素の強いゴス集団であり、ニーチェ哲学を核とした反キリスト教的秘密結社でもある。 そして結社とともに雑誌『アセファル』も創刊された。


バタイユといえば、シュルレアリスムという方も多いのではないだろうか?
ではそもそも、そのシュルレアリスムってなんだろう?
そこからカフェはスタート。

(ベルニーニ1598-1680 聖テレジアの恍惚)


シュルレアリスムって?


クノーなど一度はかじるものという時代の雰囲気だったといえる。現実を無視した世界を絵画や文学で描く芸術運動で、まるで夢の中を覘いているような独特の現実感と評される。


略語の「シュール」は日本語では「非現実的」「現実離れ」の意味によく使われる。芸術運動としてのシュルレアリスムのはじまりは、シュルレアリスム宣言が発せられた1924 年である。

シュルレアリスムは、思想的にはジークムント・フロイトの精神分析の強い影響下に、視覚的にはジョル

ジョ・デ・キリコの形而上絵画作品の影響下にあり、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視した。このことは、シュルレアリスムで取られるオートマティスム(自動筆記)やデペイズマン、コラージュなど偶然性を利用し主観を排除した技法や手法と、深い関係にあると考えられることが多い。シュルレアリスムを先導したのは詩人である。

日本におけるシュルレアリスムの詩人として有名な人物に瀧口修造がいる。瀧口は美術では池田龍雄、音楽では武満徹と親交をもっていたが、まだまだ日本のシュルレアリスムが語られる機会は少ない。

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『痛ましき腕』(1936 年)Wounded Arm Oil on canvas 111.8×162.2cm © 岡本太郎記念館








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今回は、参加者が少数でしたが

芸術・美術に興味のある方々でしたので

とても深いお話が進みました。


端的にバタイユ思想を(ただのエロティシズム)という一般的な概念で思い込んでいたかもしれない。

それが読み終えた後のカフェ内の空気でした。

このエロティシズムという書物は膨大な思想の論文でした。

その中身は以下のようなものです、簡単にご紹介いたしますね。


序論

第1 部 禁止と侵犯

第1 章 内的体験におけるエロティシズム

第2 章 死に関係した禁止

第3 章 生殖に関した禁止

第4 章 生殖と死の類縁性

第5 章 侵犯

第6 章 殺人、狩猟そして戦争

第7 章 殺人と供犠

第8 章 宗教的供犠からエロティシズムへ

第9 章 性の充溢と死

第10 章 結婚と狂躁(オルギア)における侵犯

第11 章 キリスト教

第12 章 欲望の対象、売春

第13 章 美


第2 部 エロティシズムに関する諸論文

第1 論文 キンゼイ報告、悪党と労働

第2 論文 サドの至高者

第3 論文 サドと正常な人間

第4 論文 近親婚の謎

第5 論文 神秘主義と肉欲

第6 論文 神聖さ、エロティシズム、孤独

第7 論文 『マダム・エドワルダ』序文

結論




会では、序論と第一部の禁止と侵犯から「月経の血と出産の血」を読みました。


生まれた時にはすでに梅毒が原因で失明した父とその父を献身的に介護する母という環境、その後訪れる第一次世界大戦、戦争を体験し、父が梅毒であったことによる差別的体験、母のうつ病発症、神への憧れと決別、シュルレリアリスム主義者への失望など、彼の人生を大まかにでも追いかけてみると、彼の著作の中にある本質が読み取れるような気がします。


私自身、バタイユ氏にはあまり興味はありませんでしたが、「エロティシズム」の中に表される、彼の純粋な(生きる)ことへの(人間)たちへの想いを感じずにはいられませんでした。


人間というものは、自分が欲くして生まれてきたわけではないのですが、あたりまえに生まれた後の苦悩は自分が引き受けるわけです。

時代も環境も選んで生まれることはできないのですが、それは純粋な生きるための欲望で乗り越えることができるのではないかなと読み進めるうちに思えてくるわけです。

しかしながら、それは悪や卑猥や嫌悪や醜悪を含む欲望でなければ本物ではないという仕方で彼は表現します。このあたりが、それをファッションとして取り入れる人々に利用されたのかもしれない。そして、そんなことは現代でもよくよく行われることなので、彼が生きていたらきっと腹立たしい想いであったでしょうとも思う。


バタイユという人は「道」にとてもこだわっています。

それは形式美ともいえるかもしれない。

生きるにしろ、死ぬにしろ、愛にしろ、悪にしろ、形式美をもってせよと語りかけます。

このことはとても重要なことだと思います。

にもかかわらず、形式美だけにとらわれ、そこに純粋なる欲望がない人間のなんと多いことか・・・・そんな感じかな。


コツンとぶつけた時だけ「イテテ!」と思い出す足の小指だって、実はこの目や、この胸や、髪の毛なんかと同じ私自身の一部なんですが、ぶつけるまではそんなものなかったかのように意識しない、なんてことありますね。

身体にあるんですから、むろんこの世界のすべてにちりばめられているはずです。


何かしらや、誰かしらの都合によって、我々の周りにある(禁止)にも、我々はこの足の小指のごとく、うっかりと痛い目に合うまで気が付かずに生活しているかもしれないけれど、その(禁止)は間違いなく存在しているのです。

それは古代から続いており、何かしらを(禁止)することは、ひょっとして人間の本質かもしれないと思うくらいです。そして、その(禁止)を乗り越えるべく(侵犯)すること、これもまた人間の本質なのかもしれません。

禁止を侵犯していく、この継続を進歩とか変化とか呼び、それをさらに、文化とか文明と呼んでいるのかもしれない。


あくまでも彼は戦争に反対しており、そもそも戦争とは何かを探らずして、戦争を語るな!というような域にまで達しているような情熱的な文章で戦争を語る部分もありました。

こういう部分的なところだけを抜粋すると、さも戦争を美化しているように受け止められるかもしれない、そんな危うさが彼の論文の特徴だと思いました。しかしながら、全文を読み通せば、その真意は伝わります。


今回、参加者の皆さんが、「バタイユを誤解していた」というようなことをお話ししてくださいました。私は本当に嬉しかった。


ちゃんと読む、ちゃんと考える。


それこそが哲学の素晴らしさであります。


バタイユさん、素晴らしい思考の機会をどうもありがとう!