第5回長野・対話的哲学カフェ「人生をめぐる哲学的対話ワークショップ」

対話的哲学カフェ

今回は4つのテーマで哲学してみました。


・テーマ1:「才能があるとはどういうことか?」

・テーマ2「人はなぜ嘘をつくのか?」

・テーマ3「美しいってなんだろうか?」

・テーマ4「執着を手放せないことは悪なのか?」

人生は長いようで短い、しかしながら、短いようで長いです。食べる寝る働く…同じことを繰り返す日々の中で、長く感じたり、短く感じたり、些細なことで長短の感じ方が違う事実、どなたも経験があると思います。「なんのために?」とか、「なぜなんだろう?」という問いは、長かろうが短かろうが避けられない問いなのです。そしてこのような問いは(占い)や(魔法のような言葉)などでは解決されないわけです。本当に答えを得たいのなら【自ら問い自ら答えを見つけるしかない】と思います。


そこで今回は、日常の中にある、誰もが抱えたことのある問題を、参加者の皆さんと哲学的に対話していきました。


寒い中、ご参加いただいたみなさま

本当にありがとうございました。


一緒に考える人がいる

一緒に考える場所がある

素晴らしいことです

他者に認められるものがあれば

自己にしか認識できないものがある

他者に気づかされることがあれば

自己でしか気づけないこともある


哲学とは真に素晴らしい時間を私たちに与えてくれます。



さて、いの一番に私たちが考えたのは…「才能」 について。


「才能」、なんだか輝かしい言葉である、まぶしいくらいに。 誰にでも、何らか得意なことや適性なことなどがある。しかしながら、それがすべての人にとって「わぁい、やったね!」と思えるようなものであるとは限らない。自分が好きなことが得意だったらすごくうれしい、自分が興味のあるところで適性があるとすごくうれしい、のが人間だ。あなたも、わたしもそうなんだろう。 
でも、それってどうなんだろうか? 「才能」とか呼ばれるものが、好きとか嫌いとか、嬉しいとか、ではかれるようなものであるはずはない。よくいわれるところの「天職」とかいうものも才能が生かされた職業のことだろうから、「天職」もあきらかに、好きとか嫌いとかではかれるようなものではないわけだ。 そんなことを考えてみると、私はゴッホや正岡子規や宮澤賢治、バタイユや岡本太郎らを思い出してしまう。 彼らの共通するところの「そうするしかなかった」とでもいうべき創作力。 ゴッホにおいては気も狂い、耳をそぎ落とし、それでも絵を描かざるをえない才能を与えられたわけだ。耳をそぎ落としても絵をかいてしまう才能などほしい人はどのくらいいるだろうか? まぁ、それでも、ゴッホほどにかけるのなら耳などいらないと思う人もいるのかもしれないけれど、そういう人はこのような「才能」には恵まれないのである。 「描くしかない」 「書くしかない」 みたいなことは、ものすごい覚悟と忍耐が必要になる。 そうであれば、「才能」というものは、ものすごい覚悟と忍耐が必要になるのだ。 でも、ここまできて、ふと思ったのだが、どの分野にも何の才能もない、という才能を持っている人も多いのかもしれない。それは「そうするしかない」という才能に恵まれた人とおなじように、「なにもそんなにする気にならない」という才能に恵まれた人。 能などというものは、培うものではなく、与えられるものであるのだとしたら、「私の才能はなんだろう?」なんて思うこと自体意味のないことなのだ。 好きでも、嫌いでも、思っても、悩んでも、悩まなくても、人は与えられた才能に影響を受けて、そう生きるしかない感じで生きるわけなんだから。 明日も、こつこつとあたりまえにひとつひとつをクリアする。 それが才能を思う存分生かす生き方ということになるし、言い換えれば、そう生きることが自分の才能を自分で認識する生き方ということになる。 毎日をちゃんとすることしかないわけだ、どっちにしろ。でも、これはあくまでも私の見解(笑)

会では、皆さんの意見が、まぁまず最初ということもあり、なかなか振るわず、「神様がくれるとしたら、どんな才能がほしいですか?」などと質問してみたりしました。

こういう質問って、おもしろいですよね。

 

 

さらには嘘に向かって突き進んでゆきました。

「嘘」、大きい嘘、小さい嘘、美しい嘘、汚い嘘。なーんて嘘を形容してみましたが、嘘は嘘であって、それ以上でも以下でもありゃせんでしょう。 しかしながら、この「嘘」というもの、質量ではかれるものでもないし、姿も形もないのに美しいも汚いもないわけですから、「嘘」はいったいなんなんだろうか?ということになります。 この「嘘」というもの、昨今の歴史認識問題などでもクローズアップされましたが、嘘も何年も何年も繰り返して言い続けるといつのまにか本当になるというものを私たちはこの身を以てして体験したわけです。しかし、これ自体は善悪で判定できることではないのかもしれない。 なぜならば、人間というものは「嘘」をつく「才能」に恵まれているからです。 「電車が遅れました」 風邪ひいてしまいました」 「仕事が終わらない」 さまざまな「嘘」を私たちは普通にあたりまえに今日も吐き出しているではないですか。 でも、誰かを傷つけたり、あきらかに誰かを攻撃するため、というような「嘘」である場合には、集団生活上非常に生活が困難になるわけですよね、だから私たちは「法律」を作ったわけです。 こんな嘘は罰します」という価値基準が必要なくらいに、人間は日常茶飯事に嘘をつくということが、私たちの暮らしに「法律」が存在する時点で認識できるではないですか。 人間は嘘しかつかない」 そのことを法律に携わる人はよーく知っているはずだ。だから弁護士さんとか司法書士さんとか、あなた方はみんなに教えてあげるべきなのだ、「人間は嘘しかつかなんですよ、嘘をつかない人間はいないんだから安心してください。困った嘘は私たちがさばきますのでね、ご安心を」って。 じゃあ、法律家は嘘をつかないか?といえばそんなことはないだろう。「嘘」を裁くことで金儲けをしている人間なのだから、知らないことでも知っていると装って当たり前なのだ、法律家は立派なん嘘つきなのだ、私たちの代表なのだから。

そして、あくまでも、私的な見解でしかありません、参加者の皆さんと同様、このブログを読まれた皆さんも、ご自身で考えてみてください。「ひとはなぜ嘘をつくのか」

「美」については、けっこう哲学的に話が進みました。

一番、哲学してる感じがあったと思います。

やはり、いい音楽だといい振付が浮かぶように、いい題材だといい哲学に結びつきますね。


さて、執着については 「手放す」ことがよしとされているでしょ 、このことに、私は以前から疑問を感じていました。 なんで、執着を手放さないといけないんだろうかって いいじゃないのよね、執着ってエネルギーでしょう? その人のエネルギーなんだから好きにさせておけばいい ちょっと本屋にでも行ってみてくださいよ 「生き方」とかいうような自己啓発本の棚に置かれてる  「赦す」とか 「手放そう」とか 「過去にとらわれない」とか そんな表題がズラーリ並んでいる。 なんでそんなことにこだわらなあきませんの? あぁ、うんざりする。 あなたはそんなことないですか? なぜ執着を手放せなければならないのか。 んとなく、いつのまにか、その想いを手放してしまうまで、抱えていたっていいじゃないですか。いや、もっといえば、その想いを絶対に手放さない、執着し続けて生きる、という覚悟を決めることも、それはそれで素晴らしいことじゃないですか。 しかしながら、それは並大抵のことじゃない。執着し続けるってのはものすごくパワーが必要なことだ。だから、誰にでもできることじゃないわけだ。だから、放っておけば中途半端な多くの人々は執着を手放していつの間にか帰ってくる。 でも、それでも、中にはものすごい人がいるはずだ。 ものすごいエネルギーで執着し続ける人がいるはずだ。 それは、それで受け止めてあげるしかないことだと思うのだ。 そして、おそらく、多くの中途半端な人たちは、そのような執着の強い人々を「芸術家」とか「詩人」とか「哲学者」とか「宗教者」などと呼ぶわけだ。 そして、やっぱりこれも私的な見解です。


会ではこの4つのテーマは結局全部リンクしていて、それが輪になりくるくる回るように、私たちの人生を構成している。(まるでニーチェの永遠回帰!のよう)



長野は雪でしたが、会が始まるころには雪もやみ、でも寒かった(笑)


今回、私は「嘘」というものについて、とても大きな思い入れを含ませておりました。

なぜって?なぜなら、嘘は人間にある特有の質だからです。

他の動植物は嘘をつきませんが、人間は嘘をつくんです。

善悪正誤は別にして、嘘をつくということは人間にとって共通の特質であります。

だから法律があり、だから「嘘はついちゃいけない」と子供に諭す。

嘘がこの世になければ、そんなことは存在しないわけです。


でも、嘘は時に人を救い、嘘は時に人を癒し、嘘は時に人を助けます。

それは紛れもない真実です。


人はなぜ嘘をつくのか

そう問われましたらば

それは人間だからです。としか

答えようがないのだと

今回、私にはそう思われました。


長野の皆さん、どうもありがとうございました。

また次回!