第6回読む哲学カフェ@長野【家族とはなにか?(大人の立場と子供の立場)】

一番自分に近いはずの

自分じゃない他の人《家族》

家族を考えることで社会や自分そのものを考えていこう。


というわけで

スタートした長野読むテツ

もう6回目となりました。




今回は、「哲学」というものの、そのものを、「哲学」を生業にしている人たちが、どのように語っているかを、まずみんなで確認してみました。


*永井均著 〈子ども〉のための哲学*より

「哲学というものは、最初の1歩から、つまり哲学なんてぜんぜん知らないうちから、何のお手本もなしに、自分ひとりではじめるのでなければ、けっしてはじめることができないものなのだ。つまり、哲学の勉強をしてしまったら、もうおそいのだ。勉強は哲学の大敵である。」


と永井さんはおっしゃる。


ここにかかれている「勉強」というものは、受験などに必要な「方法」としての「勉強」なのであって、「方法」としての「勉強」は、「学ぶ」ということそのものではなく、たんに「方法」としての「勉強」なんだと、そして、その「方法」は「哲学」の大敵なんだとおっしゃっているのであろう。


で、さらに故池田晶子さんの

*14歳からの哲学*によれば

「哲学という何かが、自ら考えるより先に存在しているわけではないのですが、哲学史や学説を覚えることが哲学であるという誤解は根深く、あるいはそれらを「やさしく」解説したところで、やはり自ら考えられているわけではなく、さらには自ら考えているかのようで、単なる個人の人生観であったり、そんなこんなを見るに見かねて、とにかく人が素手で考え始めるその生の始まりを伝えるべく、このような教科書の形で書いてみました」


哲学が、「哲学史や学説を覚えることが哲学であるという誤解」に満ち満ちていると思われていることが、それはそれは根深いものだと語っていらっしゃる。


池田さんいわく「人が素手で考え始める生の始まり」であるところの「哲学」


永井さんいわく「問いを問い続ける」そのこと自体である「哲学」


「哲学」とは、そのようなものなのである。という概念を確認してスタートしました。

今回参加してくださったのは

「ゆきつぼさん」

栄村マンガ本「ゆきつぼのちいさいころ」を出版、長野在住のアーティスト

「わらべうたのちえさん」

東京・長野などでわらべうたを伝えるアーティスト

「おーさかくん」

大阪弁のおーさかくん

写真の顔を見てもらえばわかると思います

「哲学」なんぞをやりましたって、2時間後にもこの笑顔が出る。

それを伝えたくて、私はこんなにバタバタした人生の中でも「哲学」を伝えることをあきもせずやっているわけです。

さて、「家族」

家族と他人の境目ってなんだろう?

血のつながりだけなんだろうか?

それとも戸籍の関係が大切なのだろうか?

いや、もしかして、個人的なあくまでも個人的な主観によって

この「家族」というものが感覚され定義されているとしたら

生き方が変化すると家族の形も変化するのではないだろうか?

 

私はそんな風に思いました。

 

「家族が広がる」

その瞬間に何が起きるのか

 

それは「受容」ではないだろうか

 

しかしながら、この受容は他者を受容する前の

「自己を受容する」ことから始まる

そのような「受容」であります

 

*自分を受け入れる

そのことで

*他者を受け入れられる

 

 

いいかえますと

私たちは、おそらく

 

*自分を受け入れた分量でしか他人を受け入れられない

 

もっといいますと

 

*自分と向き合った分しか、他者と向き合うことはできない

 

のだということであります。

 

 

「他人と他人の親子の縁、人生の意味も、ここから考えてゆくと意外と面白いことになることに気が付くはずだ」(池田晶子著 14歳からの哲学より)

 

という池田先生のことばをてがかりに考えをまとめてみると

家族というものは、人と人との縁から生まれるものであって

人と人との縁というものは、求める求めないにかかわらず

私たち自身の「自己との向き合い方」によってもたらされ

もしくは、自らつかむものなのであるわけです

しかしながら、生まれたばかりの生命には

なにかを自ら選ぶ力があるとは思えず

そうなのであれば、親と子という家族のかかわりは

親にとっても子にとっても

自分で選ぶかかわりではなく

まさに「縁」が生み出したかかわりなのでしょう

その、もたらされた「縁」からはじまった人生の中で

人は自分と向き合った分だけ他者とも向き合い

大きく、時に小さく、前進したり引き下がったりもするわけです

その「向き合う」という1歩が、前であっても後ろであっても

「境目」を広いげていくことにほかならず

「境目」が広がることを「生きる」と呼ぶのかもしれない

そんな風にも思ったのであります。

 

家族を考えることは

自分を考えること

自分と向き合うこと

にほかなりませんでした。

 

ご参加いただいたみなさん

本当にありがとうございました。

 

長野読む哲学カフェ次回はまだ未定ですが

決定次第告知しますのでお楽しみに♪

 

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