第7回読む哲学カフェ@マゼコゼさん

「池田晶子を読む」-人生のほんとう-より(常識・生死について)本文より以下を抜粋して読みました。


・常識とは何か・当たり前を生きる強さ

・なぜ生きて死ぬのか・存在のなぞに気づく

・見方が逆転する ・人の死は悲しいのか

・一期一会ということ ・死ぬのに死なない

・問うているのは誰か ・人生の公式

・言葉と定義 ・ライフプランという不自由

・たかが人生という覚悟 ・覚めてみる夢 ・不可思議な構造

-池田晶子-

慶應義塾女子高等学校を経て慶應義塾大学文学部哲学科卒業。大学時代、哲学者木田元に師事する。『文藝』の校正の仕事をしたのがきっかけとなり文筆活動に専念する。その後埴谷雄高との交流をきっかけに『最後からひとりめの読者による埴谷雄高論』(1987年河出書房)を上梓するも、かつて全共闘闘士であった担当編集者と喧嘩をし、自ら同書を絶版にする。言葉と精神の仕事のはずの言論出版界の陰険さに失望するとともに、数年間文筆業界では「干された」状態にあったが、その後『事象そのものへ!』(法藏館、1991年)の連載で復帰し、専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語ることで、多くの読者を集める。現代の思潮や流行している解釈に迎合せず、自分の考え、自分の言葉だけで存在と宇宙について思考をめぐらし、その執筆活動は哲学エッセイというジャンルの草分け的存在にもなっている。

「考える美女の会」みたいになっちゃいました(笑)池田さんのパワーかな?


ご参加いただいた皆様、当日はとても暑い日となりましたね!

暑い中、佳き考える時間を共有していただきまして、本当にどうもありがとうございました!


長野は36度にまで上がったとか…いやはや、なんだろうかこの気温。つい数日前まで4月上旬の気温で半袖では寒かったくらいなのに。。


この気温などの急変についても、今回考える基軸となりました「常なる知識」であるところの「常識」をもってして考えてみますと、春はいつでもあの春で、夏はいつでもあの夏、なーんてことをかたくなに信じていた自分の「常識」をまざまざと知らされる気持ちになります。


「変化する」こと以外に「変化しない」ものはないのかもしれない。

そんな風にも思えたりします。


春はいつの間にか夏になり、夏はいつの間にか秋になり、秋はいつの間にか冬になり、冬はいつの間にか、また春になるのであると、私たちは心底本気でそうだと思って生きています。いえ、それは大体にしてまぁそうなんですよね。

でも、1000年前の気候と比べれば、やはりなんらか変化しているわけです。それは長い年月をかけて(人間から感覚した年月においてですが)徐々に変化するのでピンとこないわけです。ですから、春から冬になるのだと信じて疑わない。そしてちょっとした変化(台風や地震や噴火)に驚愕してしまい不安を掻き立てられるわけです。


季節の話を例に書きましたが、これはすべての事柄においてそうだと言えるものかもしれません。人間関係においても、また自己と向き合うことにおいてもです。


「変化しないもの」=「信じるに値するもの」

そいういうものがなければ私たちは驚愕したり不安になったりすることが少なく生きられる。少々乱暴ではありますが、そういえるかもしれません。


「たかが人生という覚悟」を持つということを池田さんも書いていらっしゃいますが、これは、はらをくくるということと似ているかもしれません。はらをくくる、その覚悟の内に「変化しないものにこそ常に疑いを持つ」ことが含まれるのではないかとも思えるからです。


そうであるならば


「変化するもの」=「信じるに値しないもの」

そういうものにも目を向け心を傾ける必要があるかもしれない

「信じるに値しないもの」と書きましたが

これを別の言い方で書きますと・・・・


「自分が信じて疑わなかったこと」をこそ「不審に思ってみる」

そのような物事や人間関係、さらには自己にまで「不審の目を向ける」ことこそが不安や恐れから解き放たれるための方法かもしれません。


そして、そのことが「考える」ことなのかもしれませんし

そのようなことが「哲学」することなのかもしれません。


次回は東京で8月に池田晶子さんを読む予定です。

いまから楽しみです♪


長野読む哲学カフェは次回9月頃の予定です

日程が決まり次第告知いたしますのでお気軽にご参加くださいね。


最後に本書より池田晶子さんの言葉をご紹介しますね


「存在とは何か。ここに哲学が発生する。」