第20回読む哲学カフェ「ひとにやさしくしようと思う?」

 

第20回読む哲学カフェ

「ひとにやさしくしようと思う?」

 

2015年最後の読む哲学カフェは無事に終了しました。ご参加いただいた皆様どうもありがとうございました。

 

 

使用テキストは

オスカー・ブルニフィエ(訳・西宮かおり)

「よいこととわるいことって、なに?」

でありました。

長野グリーン・ヒルズ小学校で11月に開催した「こども哲学カフェ」であつかったテーマで、大人が哲学するというとりくみ。いやぁ、それはそれは楽しかった。

 

子どもの方が残酷だったり

 

子どもの方が計算高かったり

 

そういうことに少し驚いたわけです。

 

大人って、いっぱい傷ついて、いっぱい失敗してるから・・・・

 

「悪人の人生までも思いやる」能力を発揮するのかもしれない

だから価値判断基準が非常にあいまいですね

 

でも、現実社会を生きるということは、自分の中の価値判断基準をある部分ではあいまいにして(ハンドルの遊び部分のような)、「まぁ仕方ない」とか、「どうしようもない」とか、そのようなあいまいな部分で理解できない他者の言動を納得するように努めているのかもしれません。そのようなことを考えました。

 

「悪人の人生までも思いやる」ということですが自分で書いておいてなんなのですが、突っ込みどころが満載です。

これを考えていくうえでも、「悪人」とはなんぞや?を考えねばならなくなりますし、そもそも「人」における「悪」とはなんなのか、さらには「悪」そのものとはなんであり、「人」とそのものと一体全体はなんであるのか、考えねばならなくなる。

 

そして、考えただけでは実際の人生には役に立たないという事実(笑)

しかしながら、ここから、そもそも考えるということは、なにかの役に立つとか立たないとか、そのような価値判断で計れるものではないのだということが理解されますね。

じゃ、なぜ考えるのでしょう?

それは、考えることが人の人たる所以であり、人の能力を最大限に生かすためには必要不可欠な行いだからだろうと思います。

簡単に言いますと「人だから考える、考えるから、さらに人になる」みたいな感じでしょうか。

 

さぁ、そのような、考えたことを基軸に人生やコミュニティなどに役立てようとすれば、大きな枠組みと小さな枠組みでは少し違ったアプローチが必要になることを認めなければならなくなりますな、というような話もディスカッションの中でもでました。

 

だから・・・

法律が必要であったり

歴史を振り返る必要があったり

教育をする必要があったり

信仰の価値を提示する必要があったり

 

今回扱いましたところの「やさしさ」を考える必要があり、それを実行する必要もあるのかもしれないなぁと思いました。

 

2015年最後の哲学カフェでは、今年一番と思うくらいに、みなさんが「自分の発言」をしてくださいました。

 

いやぁ嬉しかった。

 

考えるって楽しいですからね。

人間のすることの中で考えるほど純粋に楽しめることはなようにさえ思います。

 

 

2015年も、「読む哲学カフェ」をご愛顧くださったみなさま、本当にありがとうございました。

20回も考えることを楽しめたのかと、しみじみしております。

来年からも、コツコツ楽しんでまいりましょう!と思っていますので、どうぞ皆様お気軽に考えに来てくださいね。