「スピノザに初めて触れる夜」-スピノザ研究者の書を通じて-

 

 

「スピノザに初めて触れる夜」

-スピノザ研究者の書を通じて-

 

2016年度最初の読む哲学カフェ

初参加の方も3名いらっしゃいました

少しずつですが「考える」ということに

深い興味を抱いていらっしゃる方が

ジャンルを超えて集う会になるように

大事に育んでいこうと思う夜でした。

スピノザのこの肖像画は、1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていたものだそうです。

 

生年月日: 1632年11月24日

生まれ: オランダ アムステルダム

死没: 1677年2月21日, オランダ デン・ハーグ

デカルト、ライプニッツと並ぶ大陸合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきたひとであり、また、ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた人であるとされます。

スピノザの著書そのものを使用した会ではありませんでしたが、スピノザをうっかり誤解することなく興味を持って読むためには、まず彼を研究している著者から、スピノザの話を聞いた方が良いのではないだろうか?そんな気持ちから今回のテーマとなりました。

なにしろ、スピノザはとても多くの誤解と多くの影響を与える人だからです。

 

 

ヘーゲル→

「スピノザは近代哲学の原点である。スピノザ主義か、いかなる哲学でもないか、そのどちらかだ」

 

ベルグソン→

「すべての哲学者には二つの哲学がある。自分の哲学とスピノザの哲学である」

 

神学者ピエール・ベール→

「宗教心がほとんどなくて、それをあまり隠さないのであれば、誰だってスピノザ主義者なのである」

 

このように言わしめております。

 

スピノザの位置→たちまち全ヨーロッパの知との関係を問われるか、さもなくば自分の哲学を問われるということであり、まさに踏絵なのである。それも全ヨーロッパの知を賭けた踏絵として、スピノザは位置づけられてきたようです。

【著者紹介】

【浅野俊哉氏 紹介】

1962年生まれ。慶応義塾大学文学部卒業。慶応義塾大学法学部を経て筑波大学大学院哲学・思想研究科単位取得満期退学。1998年より関東学院大学法学部助教授。2004年より教授。2005年より同大学大学院法学研究科教授。

 

浅野氏研究テーマ

○近・現代の社会思想史および政治哲学

近代市民社会の諸前提が崩壊しつつある現在、社会思想は、人類史的視点に立脚しつつ、環境・戦争・人権をはじめとする現代社会の諸問題の解決を目指すことが期待されています。近・現代のドイツ・フランス等欧米圏を中心とした諸々の社会思想・政治哲学を歴史的に比較検討しながら、今日の社会で、人間の解放を目指す思想がいかにして構想可能かを模索しています。

 

○グローバリゼーション研究

「グローバリゼーション」は、ある意味で世界史(とりわけ近代以降)の通事的本性をなすと同時に、従来型国民国家の変質のみならず崩壊をも帰結しかねない今日的特性も有しています。経済・政治・文化の全領域にわたる近年のこの社会システムの変貌の本質の理解を通して、実効的な社会理論の構築、民主主義の将来的なあり方などの問題を考えています。

 

<著書>『スピノザ 共同性のポリティクス』 (洛北出版)

<論文>「〈良心〉の不在と遍在化──スピノザにおけるmorsus conscientiae の行方」(岩波書店『思想』998号)

<論文>「〈徳〉をめぐる係争──シュトラウスの政治思想とスピノザ」(岩波書店『思想』1014号)

<論文>「「絶対的民主主義」とCivitasの条件 ── ネグリのスピノザ解釈をめぐって」(岩波書店『思想』1024号)

<論文>「ある「理想的公民」の軌跡──三木清とスピノザ」(岩波書店『思想』1039号)

スピノザの定義によれば、感情には「欲望」、「喜び」、そして「悲しみ」があり、「欲望」は、人間個体が自己の同一性を維持し続けようとする力で、「喜び」は、この「欲望」における力が増幅することで生じる。一方、この力が低減する時に生じるのが、「悲しみ」。スピノザによれば、理性的な人間にとっては、この「喜び」と「悲しみ」の均衡(バランス)が重要となり、理性的に振る舞うためには、これらの均衡を保たなければならないとする。

 

そのような視点を中心に据えていただきながら浅野俊哉氏著書「スピノザ・共同性のポリティクス(喜びと共同性)」を読み、後半は自由にディスカッションを楽しみました。

そもそも「喜び」とはなんであろうか?

 

そういう話に行きついた感もありました。

 

でも、ここが大切だと思います

 

そもそもそれはなんであるのか?

唯の感覚なのであろうか?

しかしながら、その唯の感覚であるところの「喜び」が、なぜこのように大きな力を持つのであろうか?

また、喜びを共有することの力の増大という事実を踏まえて考えれば、この喜びというものそのものが果たして我々の人生において、いったい何をもたらすのであるのか。。。

たとえば、何かをもたらすのであれば、喜びのおかげでもたらされなかったものもあるのかもしれないのである。

 

スピノザは「悲しみ」を悪と位置付ける。

 

このこともみんなで少し話しました。

 

悲しみも少しはないと困る。そいのような意見も出たかと記憶していますが、この場合も悲しみそのものを考える必要性があるだろうと思います。

悲しみそのものを考える時、まず身体に与える影響を考えてみれば、眼球は潤うので適度な涙は問題ないでしょうが、目がはれあがるほどなくのは身体にとっては厄介な事象であると言えるわけです。そう考えますと、喜びそのものも身体に負担をかけるようであれば、これは過ぎたるものであって良くないと言えるでしょう。

 

スピノザは心身を一つであると考えた人です。

 

私は彼のそういうところが非常に好きなのです。

 

なにしろ私たち人間は「身体」があるという事実の前に生きています。

しかし、身体だけに焦点を当てていればなんだかちょっと違う。。そんなことに出会います。たとえば西洋医学などはそのわかりやすいたとえかもしれない。

 

喜びそのものを考えることは、その喜びをどう活用するのかということにつながっていかなければ、けっきょく過ぎたるものになるのかもしれない。

 

共同性の中で喜びを活用するためには、そのような感覚を見失ってはいけないのだなぁと思う夜でありました。

 

今回から、前半は朗読、休憩をはさんで、後半1時間はディスカッションという形をとりました。皆さんの意見を自由に出していただいたり、また、聞いているだけが好きな人はずっと聞いていられるようにと思ったからです。ご参加いただいた皆様本当に素晴らしいディスカッションをありがとうございました!

気負わず、焦らず、楽しみつつ

人生にとって大切な「考える」ということを一緒に行いませんか?

次回は・・・・・・

 

2016年2月27日(土)17:30~19:30

 

「池田晶子を読む夜」-愛について考える-

【ご予約はこちらから】