第23回「芸術を考える夜」—白洲正子の書を通してー

 

2016年3月12日に開催しました

23回目となりました読む哲学カフェ

 

23回目は・・・・

「芸術を考える夜」—白洲正子の書を通してー

と題して参加者の皆さんと「ほんもの」について語り合いました。

 

読んだのは「白洲正子”ほんもの”の生活」より抜粋して。

 

 

写真は正子さんの書斎です。

ここからたくさんの作品が生まれました。

 

見学することができます

【旧白洲邸 武相荘HP】をご覧ください

最愛の夫である白洲次郎氏と正子さん

 

伯爵家の娘として

また、妻として、母として

しかし、正子そのものとしても

一期一会で生き抜いた

そのような彼女の生き方を垣間見ながら「ほんもの」を語り合えた時間、とても有意義な時間でありました。

長野で開催したときとは、やはりかなり離陸地点が違ったなぁという感じでした。

毎回、毎回、思いますが、同じテーマでも場所や人や時間が違うだけでもこれだけ「折り合い」がつく点が違うわけですから、やはり哲学を大切だと思う者としては、「考え続けなければならない」ということを本気で思ったりもします。

 

さて、今回の「ほんもの」を考えた夜は、最初は「ほんものの芸術」を考え始めたのですが、もうそこをポンと飛び出してしまいました。「ほんもの」を追い続けていた白洲正子さんの言葉を読めば、それは当然なことだったのかもしれません。

 

参加者の方々からしっかりと「ほんもの」についての考えをお聞きすることができました。

皆さんのお話をお聞きしていて感じたことは、たとえば(エゴイズム)と呼ばれている一般的には(あまりよくないもの)と思われるようなものであっても、そこにあるエネルギーはやはり「ほんもの」なのかもしれないという可能性を感じました。

 

一般的に社会全体としての(良い悪い)のようなものと

 

あくまでも個人的な価値観における(良い悪い)というようなものは

 

事象の大小に関わらず、存在することは事実でしょう。

 

一般的な意味において社会全体で折り合いをつけた(良い悪い)という判別基準に苦しんでいる人が存在しているのは間違いない事実です。

しかしながら、それを追い求めるのは誰にも止めることができない(内的な自由)なのではないかと、正子さんの言葉や皆さんの言葉を聞いていて強く感じました。

 

人には悪いこととされているような事象であっても、それを欲求する自由が内的には存在しているが、その意味においての自由を社会全体で認めてしまうと社会全体の秩序が守られないくなるわけです。

 

もっとシンプルにいますと

 

「ほんもの」の欲求は人の数だけあるということです。

 

さらに、人はその欲求によって「ほんものとおもうもの」を追い求めたり生み出したりするのですから、1歳の欲求と100歳の欲求対象となったり、生み出したりするものは変化することが想定できます。

 

「ほんもの」は年齢や時代によっても変化しうることになるわけです。

 

昨年はいいなぁと思っていたけれど、今年はあまりそう思えなくなってきた。なんてことは、当たり前のことなのでしょう。

しかしながら、一般的に社会全体共通の価値観を与えられ続けることで、自分の中から生まれざるをえなかった価値観を忘れてしまった状態では、その変化を「あきっぽい」とか、「浮気性」とかいうような言葉で追いやって持たなくともいい罪悪感に変化させ、自分自身でほんものとは程遠い生き方を課してしまう。そのようなことって多々ある気がします。

 

ほんものの生き方をするためには(変化)を恐れない自分でいなければならない。

 

正子さんの能に対する言葉を読んで私はそのような考えに着陸しました。

 

参加者の皆様の考えは数日たっていかがでしょうか?

変化することを恐れず、また考えていただければと思います。本当に良い考えをありがとうございました。

 

2016年4月30日(土)17:30~19:30

「考えるヒントで考える夜」-小林秀雄の書を通して-

 

 考えるヒントより、「批評」を読みます。

小林秀雄氏の経歴等もご説明しながら、参加者の皆さんと批評とは何かということについて考えていきたいと思います。皆さんのご参加お待ちしております。