第26回西荻窪読む哲学カフェ「ブッダの言葉を読む夜」

 

第6回目でも開催しました「仏陀」でございます。

【第6回のブログはここから】

 

第6回の時には仏陀という人の人生を詳しくやりましたが、どうにも果てしがなかったので、今回はブッダの言葉を読むと題しまして、漢字からカタカナに変えてみたりして、試行錯誤でございます。それくらいに深くて、でも味わいもまた深しのブッダさんの言葉をみんなで読んでいきました。

 

 

 

師を持たず、独りで覚ったとされるブッダ。しかしながら、彼の人生には生病老死などを含む様々な【師】というべき諸々の存在を、その言葉の中にしっかりと感じます。

 

今回は第13章(世の中)と第14章の(ブッダ)を読みました。

 

詩句として読みますと、様々なものの囲いが外れますね。しかしながら、いったん読んだ後、さらに粘り強く、インドの歴史的な背景やインド人の民族性などを鑑みながら読み直すと、さっきとは別のものが見えてくる。

いや、別というよりも、実は先ほどの物とは同じ物であるはずなのに、ほんの少し見方を変えただけで違う形であることに気がつく。という感じでしょうか。

 

フラットに考えたい。

 

参加者の方から出た言葉です。

 

皆さんのお話からも、フラットと言いますのは、もしかしたら、相手の立場にも立つ、自分の都合だけではなく相手を思いやるというスタンスではないかと思いました。

 

ブッダのいうところの「正」というものは、対立する何かを感じさせません。ここは不思議な感覚ですが、やはり私が、他でもない仏教の根付いた国の日本人だからでしょうか、しっくりとその対立しないというスタンスが理解できる。

しかしながら、彼はなにかと戦っていることも感じずにいられないし、それに向き合い苦悩し続けたままであったという風にも感じられる。

 

何かと戦わないということは、それ以外のものと戦うということであり

何かと戦うということは、それ以外のものと戦わないということでもあるのではないか

 

では、真の平和のようなものは私たちが持たされた一般的な平和というようなものとは、もともと違うのかもしれない。そんなことも感じました。

 

中村先生曰く、ブッダの言葉は人の生活の進歩を阻害しない。のだそうです。

 

欲望がないと文明や文化は発展しないですよね。

 

という参加者の言葉もありましたね。

 

私的にも、欲望というものは生きる情熱ですので、健全な欲望はあってよしではないかと私も思うんです。しかしながら、この「健全」という言葉がセットでなければならないと私は思ってしまう。けれども、元来何が健全なのか私は知っているのかどうかも分からないわけです、にもかかわらず健全であることが大切だと思ってしまう。そういうことってありませんか?

 

ブッダのことばにも「ことわり」というものがしつこく出てきますが、これをたとえば、仏教の専門的な視点で探っていくとなかなかに難しいような気がします。しかし、詩だと思って読むと、この断定的なブッダの言葉たちが、少し柔らかくなり、柔らかくなった分、深いところにまで触れるようになる気がする。

 

この気がする。という感覚は。考えるの継続にとても重要な感覚だと私は常々思っています。

 

 

詩句としてブッダの言葉を読んでみる。

「気がする」ような感覚を味わってみる。

そんなことを繰り返してほしくて、彼はこんなにたくさんの教えと呼ばれる言葉を残したのではないかしら?であるとすれば、一人の男がその人生をかけて残した言葉を、それなりの気概を持って読みましょうぞ。

 

ブッダの言葉を読み終えて、私の素直な感想です。

 

 

ブッダの言葉を読むはシリーズ化していこうかと思います。また来年も読みましょう。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    通りすがりのプラトン主義者 (火曜日, 21 6月 2016 01:31)

    こんばんは。
    仏陀の言葉らやはり深い。その言葉の先に普遍的な何かを感じぜざるを得ない。そして、仏陀でもイエスでもプラトンでも、賢人たちの言葉にはいつも何か共通点を感じてしまいます(アカデミズムの方には叱られてしまうかもしれませんが)。
    もちろん時空間は違う人々ですが、彼らが語った、歩んだ、不明瞭な中心にこそ、語り得ぬ「何か」が見えるような気がします。 特殊(時代、国家、感性、文化)を越えたところの普遍。語り得ぬその「何か」を語る試みですかね、哲学は。

  • #2

    小西とっこ (水曜日, 22 6月 2016 09:15)

    コメントをありがとうございます。
    なるほど、哲学そのものが他の学問の先駆けとして、もしくは、他の学問の基礎として、位置づけられるとするならば、科学も宗教も芸術も超えたところにある、「人間のすること」を語るにはもってこいの学問かもしれませんね。私的にはそう信じています。(もはや信仰か!(笑))