長野マゼコゼ第13回「ブッダの言葉を読む」

7月の暑い日でした。

ちょうど参院選が終わった翌日だったこともあり、皆さん心中は様々な想いもあられたことだと思います。思わずそのようなお気持ちがこぼれる瞬間もありました。こういうときこそ、哲学であるなと、私的には感じました。

 

そうだ、このようなときこそ、哲学の出番なのである。

というへんな勢いを自分につけて(笑)長野から戻ってまいりました。

 

さて、今回の長野での読む哲学カフェは、「ブッダの言葉」を読む会でありました。

 

一番最初にブッダを(読む哲学カフェ)で取り上げましたときに、「ブッダは哲学者なのですか?」という質問をいただいたことを思い出しましたので、会の内容を書く前に少し書いておこうかと、そもそも哲学カフェとはなんであるか?ということ自体にも触れていく話になると思いますので。

 

私的には哲学者というものを誰が決めるのか?ということに疑問があります。私のようにたくさんの場所で仕事をしていますと、年齢も性別も超えた素晴らしい哲学的な思想に触れる場面が多々あります。ご本人さえもそれを哲学的であるなどと意識していないそのような場面もあるわけです。

では、哲学者云々のまえに、そもそも哲学とはなんであるのか?ということを考えねばならなくなります。そこで私の考えでは「善く生きるための術」であったり、「魂を大切に取り扱うための術」であるという風に行きついております。今の時点では。

 

ですから、何千年も人間が抱えてきた思想を語った人であるところの「ブッダ」の言葉を読むことは、上に上げた「術」を豊かにするためにはとても役立つだろうと思われるので、みんなでその言葉を考える、いわゆる哲学するにはもってこいだなと思い、ブッダさんをとりあげるに至ったわけです。

 

あの人は哲学者、この人は違う。などという感覚でいるのは短い人生もったいないです。どのような肩書きであっても、立派に哲学をしている方はごまんといらっしゃいますし、哲学者という肩書があっても、残念ながらそうとは思えない方もいらっしゃいます。

 

長くなりましたが、そのような根本的な想いがありますので、「ブッダ」さんは今後も繰り返し取り上げていくことになると思います。

 

 

さて、長野マゼコゼさんでの読む哲学カフェも13回目になりました。常連さんもできてきて、しっかりと哲学カフェが根付いてきている気がして嬉しいです。

 

会の中で皆さんのご意見は、毎回とても思慮深いご意見で楽しい限りです。哲学はやはり人のぬくもりを感じつつ行うと良い意味での「健全」な話ができますね。「健全」さを支えるのは「思いやり」なのではないかとも思うくらいです。

 

参加者の皆さんからは以下のような意見が出ました。

 

・人間らしく苦悩しているブッダの姿に好意が持てた

・うらやましい生き方だ

・非常にストイックな人だったのだなと思う

 

などなど。。。

 

さらに、「正しくあって欲しいことと、本当に正しいことの違い」についても意見が飛び交いました。これはとても大切なことだと思います。

 

人間は、正しくあって欲しいことを正しいことだと思い込みがちになります。でも、自分の思う正しくあって欲しいことに現実がよらない場合、「間違っている!」と叫びたくなるのです。しかしながら、そのようなことを繰り返していると、何かと自分の思いの間に壁を立てるだけであって話し合ったり分かり合うチャンスが少なくなり、生きることはとても難しくなっていきます。

 

「もろもろの御仏の現れたまうのは楽しい。正しい考えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。」

 

ブッダさんもこのように語っています。「もろもろの御仏の現れたまうのは楽しい」のだそうです。この1行でもたくさんの人々が人生を振り返られると思います。

また、「正しい考えを説くのは楽しい」この一文に関しても、前にも書きましたが、「正しくあって欲しい考えを説くこと」ではなく、「正しい考えを説くことは楽しい」と書いてありますこの言葉は現代社会において、あらゆる専門家や学者、有識者の皆さんは、もっと深く考慮することが必要であろうと思われます。

そして、そのような、御仏も考えも様々な人々のつどいが和合していることを「楽しい」とブッダさんは言います。さらに、そのような立場や考えを超えて和合している人が「いそしむ」のは楽しいとも。

 

いやはや、ブッダ先生の言葉は本当に深い思慮のためにはとても役立ちます。良し悪しではなく役立ちます。これからも読む哲学カフェでは取り上げてまいりますので、次回もお楽しみに!

 

ご参加いただいた皆様、佳い考えをどうもありがとうございました!