西荻窪読む哲学カフェ 第29回「死後の裁きとあの世の物語を読む夜」

 

お久しぶりのプラトンでした。

「パイドン」

~魂の不死について~

その中より

・神話

・終曲

この2つのお話を読みました。

 

本来は、終曲のみを読もうかと思ったのですが、神話にて語られている、地球、もしくは宇宙と思われるものの形を説明するソクラテスの言葉を読まずして、イデアを、そしてソクラテスの死を読むと、なにかしらの誤解が生ずるような気がしたので、最初の2ページ分だけを読み、参加者全員である程度の共通認識を持つことにしました。

 

 

 

ご参加のみなさま

今月はたくさんでしたね

それはそれで、けっこう大変(笑)

主宰者の器が小さいため、いかに参加者全員の思いを考えに導いていけばいいのかと四苦八苦であります。

 

「常識」であると思い込んでいることに気がついていただくこととなくしては本来の意味での「哲学」には到達しないんじゃないかと考えますので、まずここ譲れない(笑)

 

「みんながそうということでなく、・・・と、あなたがそう思うということですね」なんてこと、私はちょくちょく言っているらしく。。。

 

会員さんでもある参加者さんに

「とっこさん、いつもそこ突っ込みますよね~」と笑われますが。。。

 

まぁ、それはそれ、器の小さな主宰者の会ということで笑って楽しんでいただければ、必ずや参加者のみなさんが「自分の考え」に到達する道筋を見失わないであろうと、まぁ、ある意味、私はそう信じていますので。うふふ。

 

さて、会のこと。

 

 

「どうやって死のうか」

 

漠然と書きましたが、これは「死ぬ」手段であるところの

・ガスにするか

・飛び降りるか

などという手段を考えるということではありません。

決して、そういうものではないとご理解くださいね。

 

 

「死」というものは、おそらく「目的」であります

少なくとも、哲学者にとってはそうなのだと、全編お読みいただければご理解いただける作品です。

 

ただし、此処で小さな問題が生じますね。

 

・理解する

ということと

 

・同意する

ということの違い

 

パイドンを読んでソクラテスの考えに同意してほしいと言っているのではなく、「理解」する力を養っていただきたいと言いたいのです。

 

「死」というものは、人間の最終目的地であるように思えます。

 

死は生のさなかに訪れるものです。

会の中でもそのような話が出てきましたね。

 

「切腹」という行為は、死ぬための行為であるのだろうか?という話題が出ました。これは興味深かったです。古代ギリシャ哲学の本を読みながら日本古来の「切腹」について考えられたのですから、あぁ、たまりません。

 

切腹という行為は、「このようにして死ぬことを選ぶ」という生の行為である。ということで全員が一致できました。だからといってこれが正しいというわけではなく、その瞬間、その場に居合わせた者たちがソクラテスの言葉を頼りに考えを共にしつつ。。。

 

切腹という行為は、死という行為ではなく、「このようにして死ぬ」という「生の行為」その延長線上に「心肺停止状態」がおとずれ、死んだあとの身体がそこに残る。

 

ということなのだということに全員で一致できたわけです。

 

人口が増えたり、逆に減ったり、国家間で人がさらに行き来するであろう未来を思えば、まどろっこしいですが、こういうこと(哲学すること)をしていくことは、よい経験になると思います。

 

日常の中にこそ哲学はなければならないなぁと、ソクラテスの言葉に(プラトンの書いた言葉)触れる度に、しみじみいたします。

 

生きながら死んでいるかのように暮らしている人。

私たちの近くに思った以上に存在しています。。。

 

死んだはずなのに生きているかのように語りかける人。

(私にとってはソクラテスがまさにそう!!)

おじいちゃんだったり、おばあちゃんだったり。。。思い当たる人がいますよね、誰にでも。

 

そう考えると、いったい「死ってなんだろう?」

 

誰も見たことがない「死」というもの

 

それを迎える瞬間まで見せてくれたソクラテスの言葉を読んで「死」を考える練習をしていただける。パイドンという本はとても良い本です。

今回は神話と終曲しか読みませんでしたので、前項は各自で楽しんでいただけることを願います。

 

 

私的には

・死は人間の最大目的

であるわけですから

死体になるための方法(手段)のことを考えるということは「死」であるところの「生きる目的」を考えることではないということを強く認識しました。

 

「死」は「生きる人にとっての目的」そのもの

ですから、必然的に「どう死のうか?」という言葉の中身は。。。

「どう生きるか」を本気で考え行っていくということであるということになります。

 

まずは、自分にとっての「死」とはなにか?をゆっくり考えることは、他者を思いやることにつながり、人生をよりよくすることにつながるのだと思えますので、みなさんもぜひ「パイドン」ご一読いただきたいなぁ。

 

目的と手段を取り違えて生きないために!

 

 

次回は。。。。。

 

2016年10月8日(土)17:30~19:30まで

第30回「孤独について考える夜」

 

三木清著~人生論ノート~より(孤独について)を読みながら

孤独とは何か?というシンプルな問いを考えたいと思います

 

 

参加費:お一人500円(別に1ドリンクオーダー制です)
定員10名まで(ご予約をお願いします)

メール: bell.bell0313@gmail.com
電話: 090-2717-0744まで
ガイド: 小西とっこ(日本大学文理学部哲学科)

 

【読む哲学カフェの流れ】前半ガイドによるリーディング、休憩をはさんで、後半自由なディスカッション

場所: 西荻窪カフェギャラリーK
新鮮野菜たっぷりの美味しいフォカッチャやケーキ、有機コーヒーやラテなどなど飲食も魅力のカフェです。
東京都杉並区西荻北3-20-8(西荻窪、北口から100mくらい、1階が八百屋さんのビル2階)
http://tabelog.com/tokyo/A1319/A131907/13158983/

 

 

 

 

 

 

 

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コメント: 3
  • #1

    通りすがりのプラトン主義者 (月曜日, 19 9月 2016 22:22)

    こんばんわ
    さすが、プラトン対話篇の回!重要な論点がたくさん出てきますね!
    「理解」と「同意」。考えを理解することは、大前提です。理解せずに批判することは、中傷に過ぎないし、理解せずに賛同することは信仰になってしまいますからね。イエスの教えが信仰になり、ソクラテスの教えが哲学になった差は何か?(プラトンほどの超弩級の弟子がいたことは奇跡!)
    「死」。本書の主題ですね。私たちは何を恐れているのか?「死に方」への恐怖と「死」への無知を取り違えていませんか?この取り違えに皆が気付くと、現世は引っくり返りますね。共産革命なんて目じゃない!「死なんて僕は知らない」とソクラテスは嘯く。



  • #2

    通りすがりのプラトン主義者 (月曜日, 19 9月 2016 23:44)

    「切腹」について。ギリシア哲学の場で切腹というのは面白いですね。日本の切腹に代表される死に様の思想は、「いかに美しく死ぬか」を問うてると思います。「美」と「死」の密通。さて、「美」というのは、「善い」ことなのがから、美は善と極めて親しい間柄でなければならない。美は善を抜きにして美、足り得ない。したがって、美を問うとは、善を問うことにならないだろうか?
    日本的「美」は「善」までは問うていないのでないか?日本的「いかに美くしく死ぬか」の探求と究極の「いかに善くい生きるか」を問うているプラトン哲学(ひいては西洋哲学全体との)の顕著な差異を見る気がします。

  • #3

    tokko (金曜日, 23 9月 2016 10:19)

    通りすがりのプラトン主義者さん
    コメントありがとうございます♪
    いやはや、面白かったですよ。東洋哲学と西洋哲学の違いといいますか、やはり歴史的な背景や、いえいえそれだけではなく、地形的な違いや気温や湿度の違いさえも、我々の思想に大きな影響を与えるのだなと。

    「イエスの教えが信仰になり、ソクラテスの教えが哲学になった差」

    これは、ぜひ話し合いたいですね!
    やはり哲学は楽しまなければもったいないです。たった1度の人生ですから、どうせ誰でも死ぬんですから。。でも現代医療などの進歩を考えますと、もしかしたら、なかなか死なない現実社会がやってくるかもしれませんものね。ならばやはり、そういう現代社会にこそ哲学が必要です。。とおもった夜でした!
    ぜひ、次回はおいでください~お待ちしています♪