第30回「孤独について考える夜」~三木清・人生論ノート(孤独)より~

10月に入り

とたんに肌寒くなってきました

 

そんな今月は「三木清氏」

孤独について、彼が考えたことを読みながら、参加者の皆さんと一緒に、それぞれの孤独をシェアしあいながら、新しい孤独を構築したり、さらにそれをまた壊したりしながら、今月も楽しく哲学させていただきました。

 

ご参加の皆様、毎回ながら、良い考えを聞かせてくださってありがとうございます。

 

ひとりで悶々と考えているのもいいのですが

こうやって、みんなを意識しながら考えていくというのも大切なことだなと思います

 

(聞いている人を意識して自分の考えを話す)

これは、孤立している状態では、なかなかに感じられないことであります。

 

たまに見かけますよね

すべての意見を否定するかのごとく

泣き叫んでいる赤ん坊

 

孤立している人というのは、まさにそのような状態だなと

私はそのように考えます

 

赤ん坊は、さらに泣き続けることで、自分の鳴き声に驚いて、もっと泣きます。

挙句の果てに、嗚咽したりして、もう何が悲しくて泣き始めたのか

何を訴えたくて泣き始めたのかさえも関係ない状態で

もうなにもかも突っぱねて力の限り泣きわめく。。。ことになってしまいます

 

そんな状態が【孤立】した状態であると私は思うのです

 

それは、今回テーマになった【孤独】とはまったく違うものだと認識しなければ

そもそも【孤独】とはなにか?という部分に深く入っていけないと思いましたので。。。。

 

みなさんに、【孤立】と【孤独】は別物である。

 

という私の考えを最初にお話しさせていただきました。

 

 

人が生きるということは

状態で表すならば

日々変化するという状態であって

日々が変化しないのであれば

それは生きているという状態にはならず

生きながらに死んでいるような状態ではないかと

私は常々考えています

 

そして、その変化は

他者と関わることによって得られるもの。。。

 

人は、人と、関わることで変化する

ですから、変化することが生きていく条件であるところの人間は

自分以外の他者と、社会的に精神的に、健全に関わる方法を学びながら

知性と理性の両面でバランスよく成長する必要があるんだなと

みなさんの活発なご意見を聞いていてしみじみ感じました。

 

 

いやぁ、良い意見がたくさん出ました。

本当に、みなさんしっかり考えをお持ちで毎回ながら感動です。

哲学って、やはり素晴らしい学問です

そして、この学問を専門的な側面と、日常に生かせる側面の

2つの側面においてバランスよく自分の中に取り込みながら

自分自身が変化し続け、成長し続けられることが

とても重要だともあらためて感じずにはいられませんでした。

 

まさに、人は人と関わることで変化するのです

私は、この夜、しっかり変化した気がしています

 

 三木 清 

1897-1945(明治30-昭和20)

1897年兵庫県生まれ。一高在籍時に、西田幾多郎の『善の研究』に強い感銘を受け、京大で哲学を学ぶことを決心する。

会の最初にも読みましたが、彼が【あとがき】にて書いている文章を、こちらでも引用いたします。

 

後記 

 

この書物はその性質上序文を必要としないであろう。た簡単にその成立について後記しておけば足りる。このノートは、「旅について」の一篇を除き、昭和十三年六月以来『文學界』に掲載されてきたものである。もちろんこれで終るべき性質のものでなく、ただ出版者の希望に従って今までの分を一册に纏(まと)めたというに過ぎない。この機会に私は『文學界』の以前の及び現在の編集者、式場俊三、内田克己、庄野誠一の三君に特に謝意を表しなければならぬ。一つの本が出来るについて編集者の努力のいかに大きく、それがいわば著者と編集者との共同製作であるといった事情は、多くの読者にはまだそれほど理解されていないのではないかと思う。編集者の仕事の文化的意義がもっと一般に認識され、それにふさわしい尊敬の払われることが望ましいのである。 附録とした「個性について」(一九二〇年五月)という一篇は、大學卒業の直前『哲學研究』に掲載したものであって、私が公の機関に物を発表した最初である。二十年前に書かれたこの幼稚な小論を自分の思い出のためにここに収録するといふ我儘も、本書の如き性質のものにおいては許されることであろうか。  昭和十六(一九四一)年六月二日(三木清・人生論ノートより引用)

 

三木氏が後書に書いているように、本というものは、作者ひとりの手により生まれるものではないのです。そこには多くの人々の関わりが存在します。本を書くという作業自体は孤独であっても、それが【本】というものに変化するためには多くの人々のかかわりが存在するわけです。そのような多くの人々とのかかわりが、その1冊にこもっているのだということを感覚してるならば、本を読むという作業が孤独であっても、我々は孤立しないのであろうと思います。

 

本というものは、そういう作用も持っているのだと思わせてくれる後書でしたので、私はこの後書の方が重要だと思ったくらいです(笑)

で、会の後、二次会に参加者の方々と出向きました

 

2時間では哲学史足りない方々との濃厚な時間です♪

 

哲女さんたちもいらっしゃいまして、「哲学の夜はふける」という感じで大盛り上がりでした。

哲学と言ってもオタクっぽくもなく、学者っぽくもない、新しい波が西荻窪でおきている~気がする(笑)

 

 

次回は11月5日(土)17:30~

第31回「絵説き:ソクラテス」

~崇高なるソクラテスの死~

文:ジャン・ポール・モンジャン  絵:ヤン・ル=ブラ

 

絵説きで見るソクラテスの死。視覚から入る感覚でソクラテスを楽しむ夜です。

 

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コメント: 2
  • #1

    通りすがりのプラトン主義者 (火曜日, 18 10月 2016 01:37)

    こんばんわ。
    「孤立」と「孤独」の違い。似て非なるものですね。孤立から導き出される正義は「独善」ですね。そこに普遍性はありません。そんな正義に世間は溢れるわけですが、そこに普遍性は無い訳で…(笑)。
    なぜ、議論、対話をするのか?ひいては書物にするのか?
    やはり、それは、独善を排した普遍性を求めてる訳で。
    その普遍性の保障・探求こそが、学問の本来の目的な訳で。確かに、そこを忘れて戯れている人々はいるのですが、真摯に、真剣に、時には命懸けで、学問をしてきた哲人も確かにいる訳で…。
    痛し痒しです。

  • #2

    とっこ (金曜日, 21 10月 2016 09:23)

    こんにちは♪こめんとありがとうございます。
    誰かの手によって書かれ遺されたものを読むとき、何も書かずにこの世から消えて行った「ものすごい人々」という存在を思います。
    そのような意味においても、やはり、書を探訪するということは、知識を探訪するということは、とても大事だなと思います。
    しかしながら、優越感を感じるためや、権威や権力を保持するための手段として、書物から得た知識を利用する人々も実際に存在しますのでねぇ。。。様々な場所で、学問や知識に対する誤解はあるかと思いますのよ。
    そんな誤解も、笑顔で乗り切りたいなぁと、私は思っていますので、今後ともおつきあいのほど、よろしくお願いしたします!