第32回「思想に強くなることを考える夜」

田中美知太郎著 ~思想に強くなること~より(思想につよくなること)を読みながら、田中美知太郎という大きな哲学者のこと、そもそも思想とななにか?などについてを考える夜でした。

 

 

田中美智太郎氏について 

 

新潟県新潟市出身。ソクラテス・プラトン研究の第一人者として著作を多数出版し、西洋古典学の専門家を育成 した。 1950 年(昭和 25 年)日本西洋古典学会を呉茂一、高津春繁、村川堅太郎、松平千秋等と設立、呉の後任で委員 長に就いた(第 2 代、1956 年(昭和 31 年)~1965 年(昭和 40 年))。他に関西哲学会会長も務めた。 戦後いち早くから著名な保守系論客としても活躍した。サンフランシスコ講和条約の際には、多くが多数講和に 反対する中で、小泉信三らと共に支持し、1968 年(昭和 43 年)には保守系団体「日本文化会議」(1994 年(平 成 6 年)解散)の設立に参画、終身理事長を務めた。 

 

思想に強くなる

 

この一文の中に

たくさんの謎が含まれています

 

 

そもそも、思想とは何でありましょうか?

 

そう考えていきますと

 

思想っていうものの存在さえも疑わしいのです。。

 

 

そんな、私の問いかけに、皆さん、思い思いのたくさんの考えを展開してくださいましたよ

ご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました♪

 

ぽん。と「思想について考えてみる」なんてことさせられたら

どうだったんだろう?と考えてみましたが

ただテーマだけを与えられてスタートしたのでは

この夜のような建設的な対話は成り立たなかったでしょう

 

ほほぅ、そうだ、たしかにそうだ。

田中美知太郎、お主、なかなかにやりおるな。なのです。

 

数日たって、この夜のことを思い出しながら、私はそう思っています。

 

田中美知太郎氏の言葉だけではなく、その1行と1行の間に在ると思われる、「彼の思想」に私たちは揺さぶられた瞬間がありました。ですから、古い本だ現代社会には関係ないなどと言って敬遠せずに読む価値が十分にありました。

 

古い考えを、今の人が読み直して考えると、現代の考えが加味される。すると過去と現在の交差する点が見える。その点を、また次の未来に伝えていくために「書く」のだろうな。

そして、このことは空論でもないし、言語をもてあそぶようなことでもない。

 

 

 

さて、会のほうはいかがであったかといいますとね

 

とにかく活発に意見が出ました。

 

 

嬉しい時間でしたよ。

 

疑い、違和感を大事にしたい。そこに思想の重要性がある。という方もいらっしゃました。

 

思想などなくても生きていけるのではないか?というお考えもあったな

 

思想は人間と人間がかかわるための術である。という私の考えと同じような考えをおはなしいただいたかたもいらっしゃいました。

 

脳の自立という言葉を残した方もいらっしゃいました

 

人類の文明の背景を知ることだというようなお話をされた方もいらっしゃいました

 

問い続けることの「続ける」ことが思想だという話も聞きました

 

 

書いた方が本気で考えて書いた書を用いると、読むほうも本気にならざるを得ない、という言葉の持つ熱量のようなものを改めて感じた夜でした。

 

 

そう、そうなんですよ。

 

言葉には熱量があるんです。

そのエネルギーに触れると、私の思想は変化し1歩前に進む。この1歩前に進むというのは、1歩死に近づくということと同じ意味ではありますが、私はどうしても1歩進んでしまうわけです。

 

そうやって死んでいくんだから、どうせ死んでいくんだから、考えてどうするのよ。と聞かれたらこう答えるしかない。

「どうせ死ぬとしても、それが明日だとしても、それが10分後でも、私はその10分後に向かって考えを進めるしか、それしかできない」

 

そう思わせるエネルギーが2016年度に取り扱ったテーマの中全体に存在しました。

 

すでにお亡くなりになった方を取り上げることも多いのですが、言葉の持つ熱量は、そのの身体がなくなっても、やはり存在し続けるんです。言葉として、思想として、其処に在るとしかいいようがない。

 

タレスも、プラトンも、アリストテレスも、カントも、ヘーゲルも、其処に在るとしか言いようがない。

 

 

 

 

中学生のころから哲学をしたくってしたくって

一人で悶々としていたのにさぁ

2016年の12月にこんな時間がやってくるとはね。。

 

あの頃の自分に教えてあげたい気分ですよ

「待ってなって、仲間がちゃんといるからねって」(笑)

 

次回は1月14日土曜日17:30~

粗忽長屋で~私とは何かを考える夜~となります。

皆様のご参加をお待ちしています

 

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コメント: 2
  • #1

    ハリー (木曜日, 05 1月 2017 01:37)

    こんばんは
    思想というのは、誰しもが持っていますが、それが、普遍(不変)性を持つか?すなわちクオリティは問われると思います。それが一線を越えた時、普遍性を獲得した時に、はじめて哲学・形而上学として時代を、空間を越えるのではないか。
    しかし、人の頂点は最晩年に来るものではなく、人生のどこかで、頂点が来て、後は下降…、みたいな事はあるんですよ
    ね。
    美太郎先生の書を読んでいてもそう思います。ちょうど、プラトン『国家』を読んで感動の絶頂にあった時、わくわくしながら読んだ『法律』の時の違和感ように…。
    ですが、それを含めて、私はその人たちを敬愛します。だって、人は神ではないから。不完全な人間でありながら、一瞬であっても神に近づいたその偉大さを。

  • #2

    Tocco (土曜日, 14 1月 2017 13:47)

    どうもコメントありがとうございます!
    思想と私想の違いというものを考える時があります。
    別物ですが、思想そのもののや、クオリティのことを考えるために参考になります。
    おっしゃるように、人生における思想の頂点はどこでくるのかを考えてみると、晩年は下降気味の場合が多数だと思います。たしかに、たしかに。
    でも、それは、この現時点のワタクシの視点から見た判断であって、最晩年にたどり着いた時の自分が、このことをどのように判断するのだろうか?と考えると、いやはや、最晩年を迎えるであろう日が楽しくもありますね。しみじみ。