第16回 長野の読む哲学カフェ@マゼコゼ   「落語:粗忽長屋で考える午後」~私とは何か?~

 

長野マゼコゼさんでの読む哲学カフェ

あぁ、16回目となりました

月日の経つのは早いものです

 

ご参加の皆様

どうもありがとうございました。

 

初めての方もいらして

いつもありがとうの方もいらして

写真撮影の前にお帰りになった方もいらして、全員ではありませんが、哲学後の笑顔♪ありがとう♪

 

落語のお話である粗忽長屋で考える(私とは何か)

東京・西荻窪に続き第2弾でしたが

前日に、マゼコゼさんで開催された焼酎亭さんたちの落語会もあったりで

その「気」が残っていた場所での「粗忽長屋」楽しかった。

 

 

みなさま、今月も佳い考えを本当にありがとうございました!

落語を哲学してみる、というチャレンジは、また行いたいと思います。

なにしろ、粗忽者に隠された可能性をじっくり感じた2時間でございましたから。

 

哲学は本当に楽しいです。その楽しさを分かち合う喜びときたら、たまりません。。。(^^)

長野での哲学カフェがしっかり定着していくといいなぁと願っております。

 

さて、会の話へ

 

まずは、粗忽長屋のあらすじ

住人が皆粗忽者ばかりという長屋に住む八と熊.

ある日,八は人だかりに遭遇する.

聞けば行き倒れだという.

行き倒れの顔を見て驚く八.

その顔は,まぎれも無く熊なのである.

しかし,周りの者が八に話を聞くとどうもおかしい.

聞けば,行き倒れが見つかったのは昨晩の事であるのに,八は今朝出掛けに熊の顔を見ているのだという.

しかし八は,あいつはうっかり者だから死んだ事に気づかないのだ,と譲らない.

八は長屋へ戻ると,熊に「お前が死んでるぞ」と言い聞かせ.行き倒れのところへ連れて行く.その死体を抱き上げて熊がいうことには,

 

「こ こで死んでる俺は確かに俺なんだが,抱いている俺はいってぇ」 

 

死んでいる熊を、ここにいる熊だと証明するために躍起になる八さん

その八さんの熱意に押され、死体を自分だと思い始める熊さん

 

八は相棒の熊を亡くした喪失感で我を失くして、その悲しみは、ついに怒りにまで達しているし、自分が死んだ悲しみで自己喪失している、仲良しの兄貴の八の様を目の当たりにし

滑稽としか言いようのない、その波に自ら飲み込まれているような熊。

 

どこにでもいる人たち、どこにでもある事柄。

これはどこにでもある物語です。

 

見たものを

自分の信じているものと

何が何でも結び付けてしまう

ものすごいパワー

 

この「粗忽」という才能に、人の中にある、とんでもない可能性が隠されているような気がします。

 

粗忽がもたらす思い込みという情熱。。。

 

実際に、誰しもが体験したことのある事象だと思われます。

 

その情熱が人を突き動かし、驚くほど速く仕事をさせたり、驚くほど長く歩かせたりしますものね。

 

自分を証明するためには、戸籍や身分の証明できる何かが必要ですが、でも、そういうものが不確かだった時代には、このようなことはたくさん、どこにでも起きていたのだと思います。

 

現代社会においては、どのような粗忽者であっても、公の機関が自分であるということを証明してくれることがほとんどです。

 

でも、だからこそ問うてみたいな。。。

 

あなたは、本当に、その何某のあなたであるのですか?と。

 

そう考えると、八や熊の行動は、なかなかに馬鹿にできるようなものでないと、私は思うのです。

 

人間のことを考えるためには、良いヒントが詰まっているなと、落語の持つ可能性も見えた題材でした。また落語で哲学する時間を作りたいと思います。