第34回 インド思想の流れと古典ウパニシァッド   (輪廻・業・ヨーガ)を学び考える夜

2017年2月18日(土)に開催した

第34回 インド思想の流れと古典ウパニシァッド

   (輪廻・業・ヨーガ)を学び考える夜

  

そもそも、インド思想ってどのような歴史的な流れがあったのかな?そもそも、ヨガってなんだろう?

そんなことを学び考えた夜でした。

 

広い視野でインド思想を眺めわたし,その主要なテーマを原典からの引用,原典の簡潔な要約を適宜まじえることによって闡明した,インド学の世界的泰斗J.ゴンダ(1905-91)による密度の濃いコンパクトな概説書.一般読者はもとより,インド思想研究者にも多くの示唆を与える基礎文献とされる「インド思想史」 (岩波文庫) 文庫 J. ゴンダ  (著), J. Gonda (原著), 鎧 淳 (翻訳)を参考資料として使用しました。

 

☆古代インド史を見るにあたって重要な視点☆

 

・灌漑(かんがい)施設 

・水道施設 ・住宅施設 ・文字 

・十進法と六十進法を併用した計算処理

・帝王崇拝の痕跡はない 

・いくつかの進化した信仰が重なるように発展

・原住民はムンダ人やドラヴィダ人

・母系制の社会だった。父よりも母を重んじた

・古代プーナの陶工たちのあいだでは最も大きな水瓶は女が作った

・古ウパニシャッドやジャイナ教や『マヌの法典』にも、この母系制が残響

・紀元前2000年ころ、そのインダス文明の地域にアーリア人がくりかえし侵入

・侵入は500年くらいにわたり、アーリア人はパンジャーブ地方に定着

・紀元前18世紀になると、アーリア人はガンジス河流域にまで進出、森林に定着

 

・古代インド最古の文献の『リグ・ヴェーダ』をはじめとしたヴェーダ集

・ヴェーダ神話 編集される

・源氏物語と同じくらいの量がある・ヴェーダ神話の中心にはインドラ神が坐った

・しだいに階級社会いわゆる「カースト社会」を形成

・多数の都市国家を多くの英雄や実力者たちが各地に勢力を張り対立して覇(は)を競い合った

・紀元前600年前後、ガンジス支流を拠点にした北インドに「十六大国」が出現

・マガタ国・コーサラ国・ヴァツァ国、アヴァンティ国の四国が強大

・カースト社会の上層部たちが信仰していたのがバラモン教(最初期のヒンドゥイズム)ヴェーダ文献を根本聖典としたバラモン層(ブラフマーナ)は貴族を中心に広がる

 

・一方ではきわめて汎神論的な思索に、他方ではきわめて呪術的な解脱術に、傾倒していく。

ご参加いただいた皆様

今月もどうもありがとうございました。

 

考えるために集う

 

なんとも贅沢な時間です

さて、私たちは、今回、知っているようで知らないともいえる「業・輪廻・ヨーガ」について、ゴンダ氏の言葉を借りて一緒に学び考えました。

 

「やはり思想史は難しい」

 

数名の参加者の方から出た言葉です。いつぞやの今道先生の西洋思想史の時にも、同じようなリアクションがあったことを思い出しますね。

 

そうですね、「史」は難しい。

 

では、なぜそれが難しいのかを考えてみますと、よく知らない国の歴史的な風習や慣習や文化文明だから、ということが大きな要因かと思われます。

 

「知らない。」「よくわからない。」

 

そういうものにつきあたると、私たちは「なんだか不安になる」わけです。これはすごく当たり前。だって知らないというのは、危険なことですからね。生命の危機を素早く察知できないかもしれないわけですから。

 

知らないと不安

知らないと怖い

知らないと恐ろしい

知らないから触らない

知らないから考えない

 

そうなんですよ、そうなんです。知らないことで生命の危機が訪れるという事実はある。

でも、でも、だからと言って、生命の危機もないようなことにまで、闇雲に不安を感じて、知ることの喜びを放棄するのが、わたしは嫌なんだな(笑)

いや、これは、いいかえたら、「知る」という哲学的な行為は、生命を切り刻みつつという作用をもたらす行為なのかもしれない。ですから、歴史的な哲学の人々を客観的にみると、「死ぬ気か!」と突っ込みたくなるような人々を、ちょいちょい見かけるんですよね。

 

そうであれば、哲学的に物事を知ろうとすることは、かなり無鉄砲な勇気がいるな(笑)

 

でも、今回のインド思想史の中には、そのような人々の思考や行動を垣間見ることができました。彼らの向き合った「死」への恐怖や嫌悪、「繰り返す生」への恐怖や嫌悪、「生命体」そのものへの恐怖や嫌悪が、インド思想史の中にしつこく繰り返し登場します。

 

死からも、生からも、さらには、現存する生命体そのものからも、離脱しようともがく人々。

科学が!化学が!サイエンスが!

地球上のものごとを、過去よりも、いくぶんか細分化しているだけの、時代の進化(この進化は、ただ、過去から在ったもののかたまりを、細かく分けているだけの技術としか見えないけれど)をみてみても、なにかから離脱しようとしているだけではないのかしら?とも思えたり。

 

人々よ、そんなに解脱して、何処へ行こうってぇの?

 

何処へ行っていいかを見つけるために、宗教的な儀式は有効であっただろうと思えるし、すべての苦しみから救われるような夢のような場所を、曖昧に明確化して、そこにいる民を統制するためには、宗教的儀式や儀礼は有効であっただろう。

 

なぜこんなに苦しいの?なぜこんなに辛いの?なぜこんなに痛いの?

 

この「なぜ?」を曖昧にしなければ、人間は動けなくなる。

「なぜもなにもない、だって、そうなんだもの、そうするしかないんだもの」

たとえば、それが答えだとしても、そんなこと言われたら、人は、やりたくないことはやらないだろう。人が「個」として個人に与えられた生命力を最大限に生かすために、また、「公」や「社会」の中のメンバーとして、自分に与えられた生命力を最大限に生かすために、人々は様々な苦行を必要としたり、それを否定したり、さらに修行したり、さらにそれを否定したりする。

 

その繰り返しを読んだ。簡単に言えばそうなる。

 

でも、それは、とてつもないことの、細分化される前の生命体の「不安」や「嫌悪」というエネルギー、もしくは可能性を見ることになる行為だった。

 

私的には、そんな夜でありました。

 

難しいと思われること、いわゆる学問的なアプローチも、決して不必要なものではないのです。学問だけやってればいい!とか、学問なんぞ関係ない!とか、そんな極端なことで「人間」や「人間のすること」は、なかなか理解できませんものね。

 

人間というものは、とてつもなく不思議な生き物です。

ですから、探る価値があり、探る楽しみがある。

 

好きや嫌いも解脱した(笑)そういう向き合い方もあるねと、ゴンダ氏は私に話しかけてきたのです。あぁ、面白い。

 

 

次回は、3月11日(土曜)となります

どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 3
  • #1

    ナナコ (月曜日, 06 3月 2017 19:19)

    こんにちは~
    読むに当たって重要な視点を幾つか書かれていますが、ウパニシャッド好きといいつつ、その視点全くありませんでした( ;∀;)
    そこ意識した読み方から見えてくるもの、折に触れて考えてたんですけど…結局分かりません…
    ほんと、超テキトーな私です( ;∀;)

    さて、解脱について、こちらの本には「死の支配からの解脱」とありました。
    なのですが、ネットで拷問の記事を見たとき、私は「これなら死んだ方がマシだ」と思いました(^-^;

    拷問のポイントは、なるべく死なないように最大限の苦痛を与えることです。
    それから、苦しみは快楽の一種と、とっこさんおっしゃってましたね。(詳しくお聞きしたいです!)
    とすると、支配しているのは死ではなく、体からの刺激全般のような。体のことがボロクソに言われてたのも、分かる気がします。

    >なぜこんなに苦しいの?なぜこんなに辛いの?なぜこんなに痛いの?
    >この「なぜ?」を曖昧にしなければ、人間は動けなくなる。

    本当に!
    『夜と霧』に書いてあったか、アウシュビッツで神父がちっとも動じることなく殺されていったそうですが、何かを強く信じていると、かえって自由に生きられる場合がありますね。

    清水富美加さんの出家のニュースの反応見ると、世間的には「宗教にすがるのは弱者」ってイメージ?哲学でも信じるってNG行為かと思いますが(笑)、「なぜ?」と思ってしまってそのまま受け入れられない、ということが人間の弱さを作っているのかなと思いました。面白さもそこにあるわけですが。

    ちなみに、物理はもう「なぜ?」を問うてないそうです。「どのように」を追求してるそうです。(多分『宇宙が始まる前には何があったのか?』 )
    きっと、いろんな分野が今、これで動いてるんでしょうね。
    本当に何処へ向かってるんでしょう?

  • #2

    とっこ (火曜日, 07 3月 2017 17:47)

    ナナコさん、いつもご参加ありがとうございます。
    コメントもありがとう!

    >物理はもう「なぜ?」を問うてないそうです。「どのように」を追求してるそうです。

    たとえば、「なぜ?」は体内や体表を流れる力
    「どのように」はその外にある自分に影響を与える力
    ゆえに、どちらも自分の力。
    そんな風に、私は思うんですよ。ちょっと抽象的すぎたかな。まぁ、許して(笑)

    で、この「許して」が信仰のようなものかな。

    >清水富美加さんの出家
    については、単に芸能事務所を辞めるにあたって、出家して引退するからウチの事務所を辞めるのよ、だから彼女に仕事を回さないでね的に前事務所が「出家」というキーワードを出させたのかな?という気もします。芸能界ってそうゆうところだから。ハハハ。
    で、「宗教にすがる」ということだけにフォーカスすれば、そりゃそうでしょ、何かにすがりたくなる人は弱いですよ。一般的にそうだと思われます。でも、哲学者は「真の信仰者」だと私は常日頃思っています。自分の信じる思想を追い求め、プラトンやカントやらヘーゲルを引っ張り出して探求し続けるところなんか、まさにその人にしか見えない神的存在を見てるんだろうなぁと思ったりします。むろん、自分においても。

    >何かを強く信じていると、かえって自由に生きられる場合がありますね。
    そうなんですよね、でも、何かを信じていなければ自由を感じられないような環境には身を置きたくない気もしますね(笑)そうまでして自由はいらないかもな、わたしは。それなら不自由でもなんとなく頑張るな、きっと。

    ウパニシャッドは雄弁に語るものではなく、ナナコさんのおっしゃる通り、「好き」という感覚の内にあるものでよいのかもしれません。私は、そう思いますな♪
    「好き」という気持ちを感覚できることは素晴らしいことです。その調子でこれからも哲学を楽しんでください!

  • #3

    ナナコ (土曜日, 11 3月 2017 14:17)

    こんにちは。
    お返事ありがとうございました!

    >たとえば、「なぜ?」は体内や体表を流れる力
    >「どのように」はその外にある自分に影響を与える力
    >ゆえに、どちらも自分の力。
    >そんな風に、私は思うんですよ。ちょっと抽象的すぎたかな。まぁ、許して(笑)

    ごめんなさい、言葉が足りませんでした(>_<)
    その本の著者は哲学に否定的で、分析(細分化、どのように)が文明の発展に繋がる、という主義の方でした。なので、とっこさんの感想に同意のつもりで書いたんです。
    でもこの件も、なんとなくおっしゃりたいこと、分かる気がします。
    よく考えると境界って不明瞭というか。外部からの影響も自分を構成するものですし…違う意味だったらすみません。

    と、ちょっと思うことがあり、ほぼ独り言でここで書くべきことではないかもしれないのですが、前のコメントと関連するので、こちらで失礼します。
    あ、お返事はどうぞおかまいなく。

    哲学に関しての私の立ち位置は、大真面目に「無知の知」です。
    悲しいことに地頭悪いので(^-^;、頭の中お花畑な言動ばっかですが、決して哲学や人生を不真面目に捉えてるのではなくて、座右の銘が「愚痴るなら死ね」なのと(もちろん自分に対してだけです!)、立ち位置があれなので、これと決めつけるものに、あまり興味を持てないだけです。

    それから哲学的対話って、みんなで向かい合って意見をバチバチさせるものではなく、同じ方向をみんなで見て、考えを少しでも前進させようとするものだと思っています。これに関しては、そんなに的外れではないだろうと信じています。

    なので、私がよく「●●と思います。」とか断言的なことを書くのは、例えて言うと、リンゴの種を見せたくて、縦に切ってみた、みたいなもので、何なら切り方は横でも斜めでも何でもかまわない。事柄の1つの切り方でしかなく、主題を浮かび上がらせるためのものです。私の場合、主題にするのは「不思議」が多いです。

    何が言いたいかというと、基本的に「●●と思います。」と書きつつ、それがメインではなく、ましてや主張でもない。のですが、もし文字通りとられると「これが正しいんだ!どうだ!」と議論的ケンカふっかけてるみたく見えるので、そういう意図はない、ということです。

    人の言い訳や自分語りを聞くのはいろいろ発見があって大好きなのですが、自分がするとなると、ほんとは抵抗があります。こう見えて。笑
    マイノリティーのお話で色々聞いておきながら「分かってください」みたいなこと書くのもどうかと思いつつ、言葉のやり取りは驚くほどの誤解や伝わらないことがすごく多い、と思うことがあり、やっぱり自分の立ち位置を書いてみることにしました。同じくらい他の人の立ち位置が気になるからでもあります。
    ブログ始めたのも、考えの間違いに自分で気づける自信ないから、指摘してくれる人出てこないかなー?という理由でした。

    長くなりましたが、このコメントの主題は「哲カフェ参加にあたって、態度悪くて不快にさせることがあったらごめんなさい。真面目に哲学を捉えてることは分かってくれると嬉しいです。間違いがあったら遠慮なく言ってください。」的なことでした…なんでこうなるんだろ。。