第35回 「そもそも、それってなんだろう?」日本的な魂と日本的な仏教について考える夜

参考資料:鈴木大拙著「日本的霊性」

 

鈴木大拙

1870 (明治  3)年1018日(新暦1111日)、金沢市下本多( 本多町3丁目)に生まれる。本名 鈴木貞太郎

 

昭和 41712日、聖路加国際病院にて没。享年95

 

石川県専門学校(後、第四高等中学校)時代 に、西田幾多郎と出会い、生涯の友となる。中途退学し、一時英語教師となるが、上京して、東京専門学校(後、早稲田大学)、東京帝国大学に学ぶ。この頃か ら本格的に坐禅に取り組み始める。見性して、師釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。明治30年に渡米し、足掛け12年間を過ごす。帰国後、学習院教授、 大谷大学教授などを歴任。日本と欧米を行き来しつつ、仏教の研究と普及に精力を注いだ。

【大拙の思想】

心と体といったような一見相容れない二つのものが実は同一のものの両面であるという一元論的な立場に立っている。『金剛経』の研究から得た「即非の論理」は新たな同一性の論理を、日本宗教史の考察において提出された「日本的霊性」は二元を総合的に把握する立 場を表したものである。その思索は、禅体験や仏教研究、そして親友西田幾多郎との相互の影響を通じて培われたものであった。

 

(京都大学大学院HPより)

今月も佳い考えをありがとうございました!

 

ゆくゆくは全部読みたい。

そんな風におっしゃった方がいらっしゃいました。。

 

そうそう、こういうさぁ、ややこしそうな感じがたくさん書いてある本は、どうしても敬遠しますでしょ?

 

でもね、気になって買ってしまう。でも、けっきょく読んでない。(笑)

 

何処にでもよくある出来事、これも、霊性の反応か!!と思ってしまうことのひとつ。

 

 

そんな難しそうな本も、頑張って読んでみると、けっこういいこと書いてあるんです。

言い換えると、難しそうな本を書くということは、その作業はとても大変なもののはずです。時間もかかったであろうし、この本1冊のために、鈴木大拙氏は間違いなく人生を削っていらっしゃったわけです。

 

だから、読む私たちも頑張ろう!

 

哲学というようなものは、ある程度の踏ん張りや頑張りが必要になります。

むろん、体力気力の充実が必要な作業です。

 

なにしろ読むだけで体力気力が必要なのに、さらに分析し、さらにさらに自分の考えにまとめていかねばならないわけですから。

 

でも、そこまでちゃんと取り組むと、自分とは違う価値観の存在を認めざるを得なくなる。

そして、自分の想像以上の情熱で取り組んだ人々の集大成を手にしたときに、「ナンダメンドクサイ」とか、「ウザイ」とか、そんな一言では退けられない(想い)に気がつかざるを得ない。

だからこそ我々は、(情熱を持って取り組める作品のみを批判しなければならない)のである。私はこの思いを抱えながら家路につき、家に帰ってすぐさま小林秀雄氏の本を数冊パラパラと開いた。秀雄氏のゴッホに関する章を読んで、しみじみした。

 

「私の実感から言えば、ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵を見るのではなく、向こうに眼があって、私がみられている様な感じを、私は持っております」(小林秀雄:考えるヒントより)

 

そうなのよ、それそれ、私が感じた感覚は!

毎回、著者が文章の向こうから私を見ている。そんな気がするのであります。

 

あぁ、まさに鈴木大拙氏のいわんとする禅的な質、日本的霊性を、小林秀雄氏の文体にも垣間見た気がするわけです。そうして、私の感覚の中にも。

 

 

さて、参加者の皆様からもたくさん意見が出ました。

 

御恩と方向の関係性の話もでましたよね

其処に在る日本的霊性。。。面白い話だった。

 

国が違えば霊性も違いが出てくるだろうという意見も出ましたね

 

であれば、霊性は引っ越したら変わる可能性も秘めているかもしれない。霊性の秘められた可能性を感じますね。

 

人間の霊性もあるだろうし

国家の霊性もあるだろう

霊性というようなものはあちこちに存在しますので

「これだ!」というようなものではありませんでしょうが

おそらく古くから日本的な霊性としてこういうものがあるでしょう。というように感覚することは、この世界のボーダーがぼんやりしたい時代において、けっして無駄なことではなく、調和するためにも、また、時には正しく反発するためにも、お互いの霊性を認め合うということは大切なことの一つであろうと思われました。

 

そもそも、霊性とは何だろう。

いま、私はこれを書きながら考えていますが

それは自由であり不自由であり、平等であり不平等でもある、非常に大きな可能性の中を揺れ動きながら、いかにしても生きようとする大切なもののように感じています。

 

いやはや、楽しい夜でありました。

3.11という日に、このように哲学を純粋に楽しむ夜があろうとは

6年前のあの夜には想像もしておりませんでした。

しかしながら、この哲学を楽しんだ夜も、6年前のあの夜も、間違いなく存在しており、その両日ともに私が存在したことは間違いない事実です。

 

我々は、ちゃんと悲しむことも、ちゃんと苦悩することも、日本的霊性を基軸に行っている可能性がある。

このことは、これから先の人生においてよいヒントとなりました。

 

鈴木大拙氏の書は情熱にあふれております。

いとも簡単には読み手を受け入れません。

でも、人を引き付ける。

 

少なくとも、私は、一生懸命に考え抜いたという鈴木氏の情熱に引き付けられているのだろうな、きっと。価値が交わらなくとも、交わろうとも、この情熱は認めざるを得ないものなのだな。

 

ご参加の方から、味わい深いコメントをいただきましたので、少し本文でご紹介します。

 

>日本的霊性というからには、「日本」という特殊的特質の霊性があるわけですよね。おっしゃるように、ボーダーレス、グローバル化の真っ只中にあっても、やはりそれは顔を覗かせると思います。盆踊りとか。

 

この大切なキーワードをうっかり記事にしておりませんでした!
でも、ここが鍵ですな。

あまりにも当たり前なフレーズ、あまりにも当たり前な事柄
「盆踊り」のようなもの。

自分の周囲に当たり前に存在しているもの、ついその存在を気にも留めないようなものにこそ「日本的霊性」は包まれているのかもしれない。

さて、私の確信する日本的霊性を抱えられたら、また鈴木大拙先生に相談しにゆこう。

 

次回は、4月15日です

皆様のご参加をお待ちしています。

 

(3月17日に加筆)

 

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コメント: 2
  • #1

    通りすがりのプラトン主義者 (木曜日, 16 3月 2017 19:47)

    こんばんわ。
    日本的霊性というからには、「日本」という特殊的特質の霊性があるわけですよね。おっしゃるように、ボーダーレス、グローバル化の真っ只中にあっても、やはりそれは顔を覗かせると思います。盆踊りとか(笑)。
    今回の回がまさに311というのも、必然なのか、偶然なのか、主催者様の意図的なのか。どちらにしても、危機の時にこそ、人の本性が顕れる(化けの皮が剥がれる?)であろうなら、特殊「日本」的な霊も、あの3月に、より多く、より生々しく、現出したのではないかと、考えるところです。

  • #2

    とっこ (金曜日, 17 3月 2017 09:30)

    プラトン王子!コメントありがとうございます♪

    まさに!まさに!「盆踊り」(笑)うっかりブログに書き損ねているじゃないですか。。深く反省。加筆します、これ大事なとこだから!

    >危機の時にこそ、人の本性が顕れる(化けの皮が剥がれる?)であろうなら、特殊「日本」的な霊も、あの3月に、より多く、より生々しく、現出したのではないかと、考えるところです。

    そうでしょうね。あそこで噴火しましたね。きっと。
    私もいろいろな人の本性や、いろいろな組織の本性を垣間見たような瞬間がありました。むろん、自分自身も、であります。
    ゆえに、3.11に哲学カフェを行う自分が放出されたのだと思います。

    日本的霊性というものは、一体なんであるのか?
    そもそも、それを僕はこう考えたよ
    で、君らはどう考えるんだい?

    鈴木大拙氏の笑い声が聞こえてきそうな夜でした。
    で。これもまた、日本的霊性か!(笑)