第36回 「愛の対象としての人間について考える夜」

今道友信 1922 11 19 - 2012 10 13 日東京 生まれ、1948 年東京大学文学部哲学科を卒業、 同大学院を経て、パリ大学、ヴェルツブルク大 学で非常勤講師をつとめ、1962 年より東京大 学文学部に移り教授、1982 年に定年退職、現 在英知大学大学院長、1981 年哲学国際センタ ーを創設以後現在まで所長。199699 年パリ 哲学国際研究所所長、国際形而上学会会長、国際美学会名誉会長、国際エコエティカ学会会長 をつとめる。著書に『同一性の自己塑性』『美の位相と芸術』ほか多数

参考図書 「愛について」講談社現代新書

7:愛と性と自己 より

3-愛の対象としての人間

 

・人間は投げ出された存在

・我々は愛を注がれる器としてつくられた

・我々を支えているものとの愛の関係

・友情は精神面での対立を許す

 

・愛の喜びとおののきと

 

読む哲学カフェ@西荻窪

36回目、三周年記念の日でした。

 

ご参加のみなさまありがとうございました!

 

 

 

わからなくてもあきらめず読む

 

真面目に考える

 

ちゃんと尊敬して話を聞く

 

楽しみながら批判し合う

 

右も左も、上も下も

 

前も後ろも、内も外も

 

哲学という愛を通して理解してゆく重要性

 

愛の対象としての人間について考えた夜。

 

参加者の皆さんから、たくさんの「愛の対象として存在するところの人間」の話を聞くことができました。

いえ、そればかりではありません、(人間を対象として在る愛)の話も聞けました。

とても意義がある時間でした。

そして、参加者お一人お一人も、心に残った言葉や想いがあったであろうとも思われました。

 

良書というものは、やはり力がある。

 

さて、わたくし自身、1日この思考を抱えながら仕事をして、いまやっと言葉にしてみようという気持ちになりこのブログを書いております。

 

自分を人間という存在の一部として(愛)を考えなければ、今道先生のおっしゃるような(愛)にはたどり着かないな。これが正直な気持ち。

 

何処の誰でもない私に注がれる愛

 

どこの誰でもない私からあふれ出る愛

 

 

「何処其処の何某」、という存在の私であれば、そのような(愛)は注がれることはないし、あふれ出ることもない。

「どこにも組み込まれない、誰でもない人間に注がれる愛」

 

求めたり、求められたりするような対象として存在しない。

 

なんともはや、孤独そのものではありませんか、ねぇ。

 

そのように考えますと、(孤独)であるということは、(純粋な愛)を感覚するために必要な条件であるようにも思えます。

 

愛と孤独は、表裏一体かもしれない。

 

というような仮説も立てることができるのではないでしょうか?

 

もしも、そうであれば、「愛と孤独は表裏一体」なのであるとすれば、私たちが一般的に思い描くような、男女がいちゃつくような、そんなものは「愛しあっている」状態ではないのかもしれませんね。純粋な愛そのものを考えれば、愛する人と一緒にあっても孤独そのものでいられる状態。それが純粋な愛の状態なのかもしれない。

 

愛と孤独は表裏一体であるとしたら、孤独は幸福な状態ともいえるかもしれない。

そして、その状態は、愛による孤独という自由の中で愛を注がれ、また、愛による孤独という自由の中で愛を注いでいる状態なのかもしれないなぁと。

 

 

参加者の皆さんからも様々なお話が聞けました。

・熱量を思った

・距離感を思った

・もっとしっかり読んでみたい

・神存在への確信あってこそではないだろうか

・このようなこと初めて考えた

・(愛)を使わなくても考えられるのではないだろうか?

・(愛)と意識しなかったが、このようなことはよく考えることだ

・自分に足りないものを参加者の言葉で埋められる気がする

・形相があったほうが理解しやすい気がする

 

などなど、まだまだ腑に落ちてないし、納得できていないかん満載の言葉たち。

そうですよね、そりゃ、そうですよ。

でも、考えは一夜にしてならず。ですから、めげずに考え続けてください。

 

そして、今道先生がセレクトした「愛の文献」もお配りしました。

読んだことがある本もあれば、初めて見た本もあったかと思いますが、ピンときたら、ぜひ読んでくださいませね♪