第37回 池田晶子著「さよならソクラテス」から (ソクラテスの弁明)の章を読む夜

5月13日(土)17:30~19:00 

第37回 池田晶子著「さよならソクラテス」から

(ソクラテスの弁明)の章を読む夜

 

 

日本人の中でも、とても分かりやすくソクラテス=プラトンの人格をちりばめた文章を書かれた文筆家である、故池田晶子さんの本を選んだ理由は、「読めばわかる」という、その一言に尽きる。

「無知の知」を通すことで

得られる何かは本当に存在するのか、否かを、

参加者の皆さんと探りながらの2時間でした。

 

皆さんご参加ありがとうございました。

ソクラテスの弁明(要約)

ペロポネソス戦争においてスパルタに敗れたアテナイの市民たちは、敗北の責任を「青年を堕落させた」とするソクラテスに押し付け裁判で吊るし上げた。ソクラテスは法廷で自分の無罪を自分で弁明する。「青年たちを惑わしたと言うが、私は人間には地位や名誉、財産よりもっと大切なものがある。それは心、魂ではないかと言っただけだ。金銭をいくら積んでも、そこから優れた精神が生まれることはない。私はそう言っただけだ。それがなぜ、罪になるのか!」

堕落させたというだけで(そのことも事実ではないが仮に事実だったとしても)罪が生じることはあり得ない、ただ敗戦を招くなどしてアテナイ市民に憎まれていた政治家たちなどのやっかみや嫉妬などが働き、裁判でソクラテス死刑の票を多くの民衆が投じる結果となった。ソクラテスのこうした発言は、陪審員に挑発的と受け取られ、陪審員たちは多数決でソクラテスを有罪とし告発者の望み通り死刑とした。ソクラテスの友人たちは役人を買収し、牢獄のソクラテスに国外逃亡をすすめた。「悪法には従うことはないと思いますが」友人クリトンの言葉に、ソクラテスは、「悪法も法である。私は法には従う。不正に対して不正で対抗し、逃亡という不正な手段をとると、これまでの自分の生き方を否定することになる」

面会に来た妻のクサンチッペが「あなたは、不正に殺されるのだ」と言ったところ、ソクラテスは直ちに「それならお前は、私が正当に殺されるのを願うのか?」と言った。

 

かくて紀元前399年、ソクラテスは毒杯を仰いで静かに死の床に横たわった。70歳だった。

ソクラテスが嫌われた要因の一つ「知らない、ということを、知っている(無知の知)」について探求したかったのですが、やはり一人の人生の中に生まれたテーマというものを考えるには時間が足りない。というよりも、自分の力がまったくソクラテスには及ばない(笑)ということに打ちひしがれた夜でありました。

 

現代社会にも生き生きと輝くソクラテス=プラトンの言葉。

 

これまでも、ニーチェもアランも、田中美知太郎も、藤沢令夫も、そして今回取り扱った池田晶子も、いや、ほかにも数えきれないほどの探求者たちが、次世代の人類のためと思ったか思わずか、自分の探求の記録を残してくれたおかげで、少しでも近い道を、少しでも楽しみながら進めるように、あの手この手で読み解こうとしてくれたのだ。

 

ということを、しみじみ再確認するのがやっとでした。

会員の方も少しずつ増えてきていて、新しい参加者の方も毎回どなたかいらっしゃる。

 

そんな会に育ってきたのは、間違いなく、「哲学が持つ光」のおかげです。

 

私は哲学することを重要だと思い、これをすることが最大の楽しみではありますが、いつもひとりで、それを行っておりました。13歳の夏休みが、哲学という旅のスタートでしたが、よくよく考えますと、いつも一人ではなかったわけです。

 

書の中に存在する先人が、私の師であり、友であったわけですから(笑)

37回目を迎えた西荻窪の読む哲学カフェが、これからも少しでもみなさんに哲学というものを人生に活用していただけるようにお伝えしていきたいと、あらためて思いました。

皆さんからも、楽しい意見が出ました。

 

・一休さんの話のようだ・という意見がありましたが。。。

そうなんですよね、結局、真理を見ようとしている人は、それに背を向けているような人々に、あの手この手で「はっ!」とさせるような「とんち」の効いた話をするんです。国を超えて、この手の話は山ほど残っていますから、これは人類の共通に存在する魂の働きかもしれないなぁと思いました。

 

・文章のテンポがよい・というお話もありましたね。。。

これは池田先生の文章力というか、池田晶子という人物の面白さであろうと思います。どなたであっても、「一度は読もう池田晶子!」と私としては勧めたい。

 

無知の知を悟ることは、論理を受容することではないか、というお話もありました。。。

「はじめに言葉があった」とはじまる書物もありますが、「言葉・ロゴス・論理」まぁ、同じようなものでしょう。やはり、これから始まり、これらが我々の魂をはぐくみ、これらが諸問題を生み出し、これらが問題を解決するカギを握る、と言っても過言ではないかと思います。

 

この論理の受容は人間にしかできないことかもしれません。

そうであれば、これは美でもあり、また、愛でもあるものともいえるかもしれない。

 

我々が、なんとなく思い込んでいる「愛」や「美」などというもの、また「善」などというものも、実は実は、まったくそれとは程遠いものかもしれないわけです。

イエスの愛も、仏陀の悟りも、我々なんぞが理解できるようなものではないのかもしれないですしね。

 

それでも、此処大事なところですが、「我々は真理を求めてしまう」わけです。

 

それが険しく厳しい道だということを、甘んじて死を受け入れていく先人の生涯を追いかけながら。。それでも彼らは、「真理を知りたい。見てみたい。」とする。あぁ、これが人間なのだなぁ。

 

ソクラテスもそうだったのかもしれない、死を見たことがないから、見たことも聞いたこともない「死」を体験してみたい。そんな軽はずみな欲求を抱えていなかったとは誰も言えない気がします。

 

まだまだ、池田先生の力を借りながら、ソクラテスに触れていきたいと思います。年に1度は「池田晶子でソクラテス」みたいな感じで♪

次回は6月17日(土曜)17:30からです

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コメント: 2
  • #1

    通りすがりのプラトン主義者 (日曜日, 21 5月 2017 00:31)

    こんばんは。
    期せずして、イエスの話に拡がった夜でしたね。
    僕も、イエスとソクラテスは、そんなに遠い存在とは思っていません。
    ロゴスを徹底して、その果てに毒杯を仰いだソクラテス。
    一方、ナザレのイエスも、こんな風に言い残してますね。
    「始めにロゴスありき、ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった」ヨハネ伝
    これ、決定的じゃないですかね。
    「神」という存在を論ずると百家争鳴、この一語に全く違う意味をもたせる事で、あまりに多くの悲喜劇が歴史で演じられたけども、哲学が語る「神」の実相は、この一文に集約されている。
    さてさて、今、宗教において理解されている神と、イエス言ったの神。果たして同じものか?
    そのソクラテスを描いたプラトン。彼が後世大きな批判を浴びる要因となった理想国(哲人統治)。
    これなんかも
    「神の王国は、人間の中にある」(ルカ伝)
    イエスがそのものずばり言ってしまっています。イデアの善なる国、それって、皆さんの魂の内の問題だよ、勘違いしないでね。
    うーん、考えれば、考える程、ソクラテスとイエス、近いなぁ。

  • #2

    とっこ (火曜日, 23 5月 2017 10:00)

    お疲れさまでした!
    やはり、「ソクラテス=プラトン=池田晶子」氏のテキストを用いると、理解しやすく、それは言い換えると、理解したくない者を含むので、おひとりおひとりの価値観が見えやすくもなりますね。
    もともと、哲学というカテゴリーは、「人間の価値や存在を自己で知るためのもの」であったと、私は思うんですが。。。
    近・現代においては(ロゴス)というものが、哲学の一部のような、哲学するための技術のように認知され用いられてきた、いや、もしや、これは中世から始まったのか?と常々思うわけです。

    であれば、古代好きは、中世以降と、「話が合いまへんがな。」です(笑)

    >イデアの善なる国、それって、皆さんの魂の内の問題だよ、勘違いしないでね。

    そうそう、たしかに、そういってるな天上界で(笑)

    でも、それにもまして「人は弱い。」わけです。ですから、考え続けないといけない。実はこれが答えのような気もするわけ、この半世紀で気がついたこと(笑)
    でも、「人は弱い」のよね、だから、繰り返しそれを言い続けてくれる人がいないことには「思考停止」のほうを頼ってしまいがちになる。。。

    あ、長くなりました、つい熱くなった(笑)こりゃ、一度、ゆっくり一杯やりながら話したいもんですな。