長野 第18回「ソクラテスの弁明を読む午後」

読む哲学でのソクラテスといえば

もう恒例となっているくらいの回数

そう、池田晶子氏の言葉を借りて

ソクラテスが伝えたかったことを読み解いたり

もしくは、けっきょく、届かなかったりする

でもって、切なくうなだれながらも

また、哲学するしかない

 

そのようなものなのだ、哲学というものは。

 

なーんてことを、思いながら、没後もほんとうのことを探求した人を忘れないぞ!読むぞ!ということで、池田晶子でソクラテスに触れていただいた午後でした。

 

利用しました資料はこちらのなかから抜粋しました。

 

少し前に、西荻窪のほうでも扱っておりましたので

より「無知の知」に集中していただけるように

私自身も「無知の知」そのものへと集中して

会を進めさせていただきました。

長野マゼコゼさんの会も会員ともいうべき常連さんがいらっしゃいます。

 

常連さんが幅を利かせるのはよくないわけですが、常連さんがいるから、はじめてさんも語りやすい空気が生まれる。

 

さらに、常連さんが自己流の語りに沈んでいくような状態からも救われたりね。

 

 

哲学するということは、一人ではできない。

哲学がどのようにして哲学と呼ばれて発展したり後退したりしてきたかを学ぶことは「哲学する」ということそのものに含まれるかもしれませんが、それそのものではない。

 

池田晶子さんの文章に触れると、そのようなことを思わざるを得ないところへ運ばれます。

 

さて、無知の知に集中した会の様子ですがね

 

絵を描く人や、舞台で生きる人、なども含むメンバーさんたちですから

哲学という学問体系をさほど知らなくても、しっかり哲学なさいます。

 

でも、口々に以下のようにおっしゃる

 

「哲学はあまりよくわかりませんが。。」

 

「よくそんなに知らないのですが。。。」等々

 

 

あら、あらら、これは、まさに、無知の知の自覚(笑)

 

いやいや、謙遜かもしれないのですがね

 

でも、哲学するということの前では、建前的にであっても

「何もそんなに知らないんですけれど」という謙遜を持って挑むということは

大切なことに集中し続けるためには絶対的に必要なことではないかと、しみじみ。

 

知っているようで知らなかったことはある

 

知らなかったようで知っていたことはある

 

「無知の知」

 

これはどなたもが経験したことのあることではないかと思うので

みんなで、一つの普遍的な共通認識として自覚しておくというのは

とても大切なことなんですね

 

会の中でも、西ちゃんがそのことを熱く語ってくれました

そして、みんなで、西ちゃんの「共通認識が不明瞭な場合の不安」を理解するため

各々の個人的な見解や、個人的な思考の中からでた言葉を使い

 

「西ちゃん、こういうこと?」

 

「こう考えているの?」

 

「こんな風にもいえるんじゃない?」

 

などなど、時には客観的に、時には内省的に、本気で探っていくさなかに

 

ソクラテスが笑って私たちを見守っている気がしたのです。

 

 

無知の知を自覚し続けるということは、永遠の革命にも似た行動かもしれない。そんな風にも思いました。数分前までの自分に問うてみる作業

 

「ねぇ、私よ、それは、本当にそうなのかしら?」

 

「ねぇ、私よ、私は、ほんとうに知っているのかしら?」

 

「ねぇ、私よ、私って、そもそもなんなのかしら?」

 

「ねぇ、私よ、ほんとうに此処にいますか?」

 

「そして、此処って、いったい何処なのかしら」

 

 

 

あぁ、どんどん楽しくなってきたので、とりあえず、今後も読む哲学カフェでは池田晶子さんとソクラテスのコンビにはご登場願うことにします(笑)

 

長野マゼコゼさん読む哲学カフェは次回8月14日の予定です!