第39回 「モラルについて考える夜」

 

小林秀雄、こばやし・ひでお。

 

日本の文芸評論家、編集者、作家。東京出身。東京帝国大学仏蘭西文学科(仏文科)卒業後、作家・評論家として活躍。また、明治大学教授、文芸雑誌『文學界』の編集責任者を務めた。

 

明治35年(1902)4月11日、東京・神田に生れる。

昭和58年(1983)3月1日、午前1時40分永眠。墓は、鎌倉・東慶寺にある。

 

今回、使用した本は、「常識について」 (角川文庫)

随筆集という形態で、様々なことについて、小林節と言ってもよいだろうと思うように、どの頁を開いてみても、作者の考える上での基本的な姿勢がうかがえる本です。

 

 

その中から、昭和15年に書かれた「道徳について」を参加者の皆さんと読みました。

 

読んでいて、まず思ったことは、2017年の現代においても、小林秀雄氏が当時に問題として定義したような事柄と、ほぼ変わらない問題点を見つけられるということです。

特に、親と子の関係性における問題など、現代社会において何が変化し師進化したといえるでしょうか?そうです、たいして改善していないというしかない状態です。もしかしたら、人によっては悪い状態になっているというかもしれない。でも、私的には、変化も進化もしていないように見えるんです。

それくらい、親子のことや、家族の問題というのは、人間の本質に近い問題なのだろうと思うわけです。

 

こういうところをしっかりと書いてくれているあたり、よく考えることのできる書物だと思います。

ご参加の皆様

善い考えをほんとうに

どうもありがとうございました!

 

考える時間を共有できる

たとえ思想を共有できなくても

たとえ価値観を共有できなくても

 

考える時間

それそのものを共有できることに

喜びの本質を見た気がしました

参加者の皆様から、貴重な意見をいただきました。

 

公と私というような2つの道徳的な概念を保持していることに気がついたと言ってくださる方もいたし、哲学の一部であるところの日本文学というものに対しての小林秀雄なりの憤りを感じた人もいらした。

また、わかったつもりだったことに気がついたという方もいらしたし、実践的なことと、理念とのギャップを感じたという方もいらした。

自己と他者の違いをあらためて感覚したという方もいたし、小林秀雄の意地悪な書き様を指摘した方もいた。

 

人は確実にひとりひとり違う。

 

だから、様々な意見を聞くことができる。

 

このことはシンプルですが、とても大切なことだと思います。

 

昔も今も、「この社会には、共同体には、様々な規則や規範が存在する」

しかしながら、この様々な規則や規範は、みなの生命を、そして自己の生命を危うくさせないための、おおよその手段として存在しているわけなのだから、人間存在そのものにそなわっている(価値や生命の自由)を遮断するようなものではないと私は思いました。

 

たとえば、多くの人は、ケガや病気で痛い目にあいたくない。

 

だから我々は健康に気をつかうし、他者に対しても、おそらく「痛いの嫌でしょ?」と想像するから、その交流において、問題を起こさないようには気をつけて取り組もうとするわけです。

 

道徳そのものは、誰かや国家に、無理やり押し付けられているというようなものではなく、(痛みを避ける)ことをするように、自分と他人の双方の生命を危うくさせないために、自分自身で選択した(他者とかかわる手段)として認識すると、あまり無理がない(笑)
そのほうが、道徳の本質に近づいていくように思える。

少なくとも、私はそう思う。

 

昨今はSNSやブログなどで、自分の勝手な言い分を正当化して、相手に道徳的なふるまいを強要する文章をまき散らす人が多くなってきているけれど、そもそも、道徳というものは、そのようにして人を縛ることができるようなものなのだろうか?

先にも述べましたが、道徳というようなものは、自分と他人の生命を危うくさせない手段として存在するものではないだろうかと思うわけです。

自身の選択する自由のチャンスを無視して、親が自由をくれない、配偶者が自由をくれない、国家が自由をくれない、というように騒ぎ立てる人のなんと多いことか。切ない気持ちになります。

本当に自分のしたいことを全うする気概があるのであれば、(規則や規範を守らない)ということの代償ともいうべきところの、(罰せられる)という覚悟が必要なのである。どの時代においても、それは変わらないように思う。

 

本当の道徳というようなものは、自分の中に生まれ、自分の努力で育むようなものなのであって、その自分の内に生まれ花開いた道徳と、社会的な規範や規則とを照らし合わせながら人は生きるのだろう。

 

時には社会的な規範や規則を破ってでも、(自分の人生を自分の内にある道徳で選択して行動し全うする)ということも有り得るのだろうけれど。。。

私的には、ソクラテスやイエスや仏陀などは、まさにそのような人々であったと思わざるを得ない。

 

道徳というものは、そもそもなんであるのか。

 

このようなことは、7歳くらいになったら本気で考えたほうが善いことだろうと思えた。

 

さて、次回の西荻窪読む哲学カフェは

8月19日(土)17:30~19:30

「ヘーゲルという哲学者を訪ねる夜」です

 

皆様のご参加をお待ちしています!