第43回 ダライ・ラマ14世の言葉をたよりに 【愛】を考える夜

 

愛を宗教的に語る

ダライ・ラマ14世の言葉を

みんなで読みながら

その言葉をたよりにしながら

自分の中の愛を見つめなおし

社会における愛をも見つめていけたら。。。

 

そんなコンセプトで今回のカフェを企画しました。

 

・愛

 

そして

 

・慈悲

 

この違いを、わりと長い時間考えましたね。

 

ダライ・ラマ法王がいらしたら、どう思われただろうか。。そんなことを考えながら、皆さんの思考を聴いていました。

 

さて、当のダライ・ラマ法王とはどのような人なのでしょうか。。。

ダライ・ラマ法王十四世(テンジン・ギャツォ)

 

チベット民族の国家的、精神的指導者。チベット北東部のタクツェルという村落で、1935年7月6日誕生、ラモ・ドンドゥップと命名され、2歳の時に、ダライ・ラマ法王13世、トゥプテン・ギャツォの転生者であるとの認定を受ける。

皆さんに配布した資料は、ダライ・ラマ法王の日本での公式HPから引用したプロフィールでした。皆さんにもお話しましたが。。。

 

わたされた資料に書かれていることをむやみやたらに信じないこと。

 

いや、これは、アチコチにうそが書かれているという話ではありませんのでご注意くださいね。ただ、哲学をしようと思われている場合、どのような文章であろうとも、「自分の魂がくもっていない状態で読んでいただきたい」ということを言いたいのであります。

 

「これは本当のことなのかな?」

「相手側から見たらどういうことになるのかな?」

「その争いが起こる前にはどういう状態だったのかな?」

などなど、当たり前の疑問を霞をかけて濁さないようにしていただきたいなぁと。。

 

どのような書物であっても、どのような文章であっても、そこには誰かの魂が存在している。そこには誰かの思念が存在している。そこには誰かのエネルギーが存在している。ということを忘れてはいけないと思うんです。

 

そして、読書した時に、その誰かの魂に触れてみた時に、自分はどのような疑問を抱くのかということを大切にしていただきたい。それが、哲学するということの第1歩のように思うからです。哲学は暮らしの中に生かされてこそのものであり、暮らしの中にしか存在しないといってもいいかと思われます。

 

ダライ・ラマ法王の言葉は、哲学できずに彷徨う我々にも、たいへんわかりやすい言葉で「愛」という壮大なテーマを語ってくださってました。

 

 

今月も初めましての方も、常連さんも、良い哲学をありがとうございました!

 

世代や性別を超え人が同じテーマで語り合う。。古代や中世の哲学者たちが見たらきっと卒倒するかもしれない(笑)いや、怒り出すか?

 

 

みなさんから、「愛」を哲学した言葉をいただきました。

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愛はコントロールできないようなものだが、経験によってその力の強弱をつけられるかもしれないもの

 

深さの違い、そのものの種類の違い、愛と人との距離感の違いなど、ひとりひとり違う

 

イマジネーションしながらつなぎ合わせて「愛」という形にしてゆくものかもしれない

 

そこに正義はなくとも愛がある、というような「愛」もある気がする

 

自己中心的なことから脱却することそのものが「愛」なのではないだろうか

 

「愛」は余裕がないと完成できないかもしれないもの、難しいけど身近にあるもの。

 

日常では、「愛」には無関心なことも必要かもしれない。

 

「愛」を背負うストレスもある。

 

「愛」は「美」を装う

 

憎しみと表裏一体

 

信じている「愛」はただ一つ、「真理への愛」である

 

「愛」は一人ずつ答えがあるもの

 

「愛」をいつも、それとはなにか?と問い続けることが「愛」なのではないか

 

「愛」は、ただ在るもの

「愛」を考えることは、なかなかに難解です。いつもそう思うんです。しかしながら私はあきらめない(笑)といいますか、あきらめが悪いんだなぁ。「愛」というものについては、私的には、現時点で、仏陀の説く愛についての思想が的を得ているなぁと思うわけですが、しかしながら人類は進化し続けており、「人間」と呼ばれる種類の生命も形を少しずつ変えながら能力を変化させながら存続し続けているわけです。ゆえに、そのうちに、「愛」などというものを考えて集まっていた時代もあったんだねとか、未来の人に笑われるかもしれない。そう考えると。。。。この無駄な行い、やはりやらずにいられない。未来の人が、私のような末人の決意や勇気や行動を垣間見て、ほんの少しでも笑ってくれるかもしれない。そう思うと、いろいろあるけれど今日もていねいに生きようと思えるわけです。もしかしたら、これも愛なのかしらね。そんなことも思いますなぁ。

「愛」って人間の「想い・思念」のようなものの源泉に近いところにあるものなのかもしれないな。ダライ・ラマ法王は日本にもたびたびおいでになっているようです。せっかく彼の言葉で哲学したのですからね、チャンスがあったらお話を聞きにお出かけくださいませよ。