長野読む哲学カフェ「ダライ・ラマ14世の言葉に触れる午後」

 

前回の東京でのカフェに引き続き

長野でも、ダライ・ラマ14世の言葉から、愛や人生の目的というようなものを、ご参加の皆さんと一緒に考えました。

 

・慈悲と愛というものの相違が存在することに気がつきました。

 

・愛はもともと持ち合わせてはいるかもしれないけれど、慈悲は育てなければいけないもの。

 

・慈悲についてもう少し深く考えてみたい

 

・最終的にはチャーミングであろうとすることを目標にしたい

 

・愛→慈悲→チャーミング

 

・偉人や有識者の言葉は、いつもは天からのギフトのように受け止めているが、実は、同じ地平に立っている人からの言葉なのではないかと思った

 

・生命の力の源となっていきそうだ

 

・何事にしろ、伝えた先に何があるのか、また、知っていても伝えない姿勢と異様なものにも気がついた

 

・良い動機とはそもそもなんだろうか?それは一般常識とか、世間体とか言われるものかもしれない。

 

などなど、参加者の方々からは様々な意見が、ゆっくりですが、ぽろぽろとこぼれてきました。14世のリズムの言葉を読むと、そういうリズムになるのかもしれないですね。

 

今年最後の長野マゼコゼさんでの読む哲学カフェでした。19回目のカフェはダライ・ラマ14世の言葉を読みましたが、長野という場所とダライ・ラマ14世とのかかわりは実は深いのです。そのような場所で14世の言葉で哲学できた時間は、なかなかに味わい深かったです。

 

宗教家でありながら、その言葉は、宗教から遠く離れている人にも届きやすいように深く施行されて紡ぎだされている。そのような気がします。

 

彼は間違いなく「伝える人」であることは間違いないでしょう。

 

彼が伝えているもの。。。

 

慈悲という種の存在だろうか

 

その種を育てるために愛を注ぐ重要性だろうか

 

自分以外の人の常識や信仰を自分のものと変わらないように取り扱うことの意味を考えること、これは、一神教でも説かれることかもしれませんが、14世の場合はチベット仏教が背景となりますので、仏教的なものの見方が基軸にあるように感じます。

 

私自身、2回連続でこのテーマを取り扱ってみて、彼の世界観のボーダーを、彼自身、一体どこに引いているのかが知りたくて、彼の言葉をたどっておりました。彼の置かれた幼い頃からの経験からかもしれませんが、その境界線が仏陀やキリストとは、なんとなく違うように感じられます。交わっているものも有れば、それらすべてを俯瞰しているような言葉も存在する。しかも、行間にも「それが存在する」としか思えない感覚にもなるわけです。

 

こういうものを言霊というのかもしれませんがね。しかしながら、霊的なことは深く掘り下げる必要性を、現段階では感じられないので、これはここまでにしておこう(笑)

 

 

あぁ、そうだ、「愛」というものを今回深く考えていたら、それはなにかしらを「継続」できること、この「継続」ということそのものが愛ではなかろうかと思うところに至りました。

 

我々が何かを継続するには、様々な感情の因子が必要になります。喜怒哀楽、憎しみ、哀しみ、何でもかんでも、とにかく継続させるためには感情を起伏さていかなければ、まずは、飽きる。そして、いたたまれなくなる。ような気がするんですよね。

 

どんなにそれが大事なことだとわかっていても、いたたまれなくなって逃げだしたくなり継続不能になるような状態が愛の喪失なのかもしれないなぁと。

 

生きるということは、「愛という名の継続」が、様々な種に注がれ続けていなかったら難しいことなのだろうと、そう思いいたりましたよ。

 

 

欲望という名の電車、みたいなごろ回しで、「愛という名の継続」なーんて書いてみましたが、ちょっと気に入っています(笑)

ちょっと気に入るって大事ですね、次回への継続につながりますから!