長野カフェ:第20回「キリスト教とはなにか考える午後」

 

長野マゼコゼさんでの読む哲学カフェ

第20回目を迎えました

『キリスト教を考える』の回に

たくさんの方々にご参加いただきました。みなさま、良い哲学を聞かせていただき本当にありがとうございました。

 

そして、マゼコゼさん

どこの馬の骨ともわからない私に、哲学する場所をご提供いただき感謝です。長野の読む哲学カフェも成人式だったのだなぁと、帰り道にしみじみいたしました。

 

今回は、キリスト教の歴史的なことや、その成り立ちなどについての著述部分を資料に読み解き考えていきましたが、よくよく考えてみますと、私がこのように哲学への希望を断ち切ることができずに、誰にも頼まれることなく、誰にも必要とされていなかったはずのことを、細々と継続させながら、小さな小石の波紋がやがては湖に広がってゆくかの如くに、いつのまにか、いつのまにだろう。。。袖が触れ合うようなご縁の方々と、一つのテーマで語り合うことができるようになっている。これは間違いなく喜びに含まれる感覚であろうと思われる熱量を私の心と思われる部分は感覚しています。

 

みなさま、本当にいつもありがとうございます。

 

今回、取り上げております本はこちらの本です。

この本を読んだこともなければ

著者も知らなかった

という人がほとんどの回でした

ゆえに、ある程度、テキストを先入観なしで読むことができた。という気がしました。やはり、「知っている」と思い込むことは視野を狭くしますね。

長野の皆さんの視野は広かったです。今週土曜には同じテーマで東京開催ですから、どのような流れになるかも楽しみなところです。

 

長野の回では。。。。キリスト教を考えることで、そもそも宗教とはなにか?を考えることにつながりました。 

 

そもそも宗教とはなにか?を考えることは、実は実は、人間とはなにか?に発展し、さらには、自分とはなにか?を考えることにも発展する!という瞬間を体験した貴重な時間でありました。

 

キリスト教を考えることで仏教や神道や天皇制のみならず、政治や資本主義社会の仕組み、また、家族というものの在り方、恋愛に対しての思い込みなど、まぁ、それはそれはたくさんの人間のすることを客観的に見ることにつながりました。

 

人間のすることに興味を持つのは、私が人間なのだから当たり前なんだなぁと、そういうことにも気がつきました。ゆえに、人間の歴史から切り離せない宗教のことを考えるということは、人間を考える上では切っても切れないことなのかもしれません。

 

さぁ!次回の東京でどのような展開になりますやら!こうご期待!